預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

逃げろ!(創世記19:15~29)

 主は、ソドムとゴモラを滅ぼそうとされた。その町に住んでいたロトとその家族は、ノアとは違って、決して「神の前に正しい」とは言えないが、主はロトを憐れみ、救い出そうとされ、『いのちがけで逃げなさい。この低地のどこででも立ち止まってはならない』と言われた。そのあたりの低地一帯は危険な領域だからであろう。一番安全な『山に逃げなさい』というのは、妥当な正しい措置である。しかしロトは、遠過ぎるから、と、近くの町へ逃れることを願い、聞き届けられる。
 この、ロトの物語は、私達クリスチャンの信仰生活に共通するものがある。使徒2:40で、ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と説教した。別訳では『逃れなさい』だ。私達は、どこに逃れるべきか。一番安全なのは、神の国・天国である。しかし、そこは、人間にとっては、余りにも高い山のように思えるのかもしれない。だから主は、近くに逃れの場所を用意して下さった。それが教会だ。とは言え、その教会も、未だ地上という危険な領域にあることを忘れてはならない。いずれは天国(一番安全な場所)に行かなければならないのだ。そこに向うステップ(御言葉の中に逃れ、生きる訓練)、それが教会生活であると言える。
 さて、主はロトに対する憐れみのゆえに、『家族も連れて行け』と促された。が、ロトの妻は振り返ったので、塩の柱となってしまった。その悲劇、そもそもの原因は、ロトにある。彼は『逃げなさい』と主に促された時、躊躇っていた。主の御心に適う歩みもしていなかった。そんな姿を見ていた家族が本気になるはずがない。だから、彼の婿達は、冗談だと思っていた。
 私達は、まず自分自身が主の御心に適う歩みをする必要がある。身をもって示して行かなければならない。この世という危険な領域の中にあっても、主の教えの中に逃れるべきであることを。振り返ってはいけない。全力で、主の教えの中に生きる者となろう。

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