預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇116(え? 誓いますよ??)

 ギクシャクした詩だと感じる。例えば1節。主を愛する理由は「主が願いを聞いて下さるから」だと。それなら、祈りが聞かれなかったら即刻離婚、偶像に行くということなのか


 更に10~11節。「私は信じた」と。その直後に慌てて「全ての人は偽りを言う者だ」と言った。すると「信じた」は虚言で、それを取り消してるということなのか。
 いや、そんなはずはない。他の訳の聖書と照らし合わせると「私は信じる…人は嘘つきだ、と思えるときも」という意味だと分かる。1節も、新共同訳では「から」は無い。「主は…聞いて下さる」だ。とにかく、神は信頼されるべきお方だ。「主は情け深く、正しい」(5節)。


 そこで詩人は言う。「私の魂よ。お前の全き憩いに戻れ」(7節)と。「全き憩い」とは何か。何の心配も無いことか。いや、「魂よ。お前の」と言われている通り「魂にとっての完全なる憩いに戻れ」と言っているのだ。すなわち神に信頼して、神と共に生きる」という本来あるべき元の形に戻れということだ。そこから離れていたからだ。それゆえにイスラエルは、バビロン捕囚という懲らしめを受けた。だから「神に信頼して神と共に生きる者の姿に戻れ」、そうすれば主は報いて下さる、と言うのである。


 それゆえに詩人は、イスラエルを代表するかのように「私は、自分の誓いを果たそう」(14節)と言う。それも二度(18節)も。誓ってはならないどころか、主の民は、自分の誓いを果たすべきなのだ。それが主の良くして下さったことに対する「お返し」(12節)なのである。


 クリスチャンは、神の民として生きようとする、その初めの時に洗礼式という誓いを立てている。「これからは主にだけ従います。主と共に生きて行きます」と。それは「正しい良心の、神への誓い」だとⅠペテロ3:21に教えられている。
 その誓いも禁止だと言うのだろうか。いや、尊ばれるべき誓いだその誓いは断固として果たされるべきなのだ。決して破棄してはいけない。それこそが「魂の全き憩い」を得、救いの完成に至る道なのだから。


 この御言葉の約束に基づく信頼を神に寄せよう。そうすれば主は報いて下さる。

×

非ログインユーザーとして返信する