預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇117(詩篇でクリスマス)

 キリストの降誕は、決して煌びやかなものではなく、むしろ厳しい。それは馬小屋で産まれた主御自身にとってだけでなく新生児を、産湯さえ無いような環境で飼い葉桶に寝かせるしかなかったヨセフとマリヤにとってもである。
 普通に考えれば、修羅場だそんなキリストの誕生を喜べるのは、信仰があればこそなのである。


 さて、ここで詩篇は「全ての国々よ、全ての民よ、主をほめよ」と命じる。何故なら「主の恵みは私達に大きい」からだと言うのだが、何か、おかしい。
 主の恵みを受けたのは「私達」と言っているのだから、その「私達」(詩篇が書かれた時点において「私達」とはイスラエル)が主をほめればいいのではないだろうか。それを何故、他国の人々(異邦人)にまで強要するのか。


 勿論、異邦人も被造物であるのだから造り主を崇めるべきと言えば、そうであるが、しかし、崇めるということは、信仰を以てであるわけで、すると、「全ての国々よ、全ての民よ、主をほめよ」との命令は、ともすれば、全ての国民が救われるという「万人救済説」に陥るのではないか。


 確かに、全ての人が救われるというのは理想的ではある。ゆえに伝道はすれども、他の信仰を持つ人に無理強いして押し付ける(十字軍のような)のは良くない。


 それでも「全ての民よ主をほめよ」と言うには根拠がある。それは「キリストの降誕」だ。イスラエルになされた「神の大きな恵み」(旧約の奇跡の数々)は、全て「救いの計画の一部」であり、その計画を完成させる為にキリストはこの世に来られた。そして今も、信じるなら誰でも救われる。「主の真はとこしえに至る」と、この詩が言う通りだ。


 だから、イスラエルになされた奇跡・恵みは、イスラエルが主をほめればいい。しかし、それらの恵みは、異邦人も救われる為の神の計画なのだ目指すは異邦人も救われることその素晴らしさのゆえに「全ての民よ主をほめよ」なのである。
 つまり、この詩はローマ15:8~11に証しされているように「クリスマスの預言」だったのである。そして続く12節で引用されている通り、イザヤの預言(キリストが生まれる)は「異邦人がこの方に望みをかける」ためなのだ。


 キリストを信じるなら誰でも救われる。この「主の真はとこしえに至る」。その素晴らしさをほめたたえよう。

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