預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇103:6~13(お咎めなし?)

103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


103:6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。
103:7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
103:8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
103:9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
103:11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。



 恵みの言葉に満ちた詩篇であるが、誤解されていることも多い。それは3~5節以外にも、例えば12節。「罪を私達から遠く離される」とは「罪を行わないように神がしてくれる・完璧な人になれる」ということだろうか。更には、10節は「罪を見過ごしてくれる」ということだろうか。


 改めて。主の良くして下さったこと=救いの計画は、やがては天国で新しい体に変えられる(3~5節)ということであり、それが「正義と裁き」だと6節。その道をモーセとイスラエルに知らせたが、イスラエルは何度も神を裏切る。しかし神は真実で、契約を守り、計画を遂行した(7~9節)。


 そこで10節だが、神は決して、罪を見過ごしにはされないただ、罪人を救いたいと願い、身代わりに御子に罪の罰を負わせた。キリストを信じる者の罪を赦すためだ。だから私達は、信じた故に罪は赦されてはいる。が、罪の性質(肉)は依然、残っている。その残っている罪の性質に従って私達を(罪人として)扱うことはしない、というのが10節の真意だ。その恵みの大きさはどれ程か、と11節。従って12節も、罪を行うことの無いように罪を私達から遠く引き離すということではない。キリストの十字架のゆえに、罪人として扱うことはしない(義と認める)ということなのである。


 さて13節。前提は「父が子を憐れむ」ということだ。同様に神も、神の子を憐れむ。では、神の子とは誰か。それは「神を恐れる者」だということである。たとえ完璧でなくても、出来が悪くても、罪の性質が残っていても、我が子を憐れむ父親のように、神の子を憐れむというのだ。すなわち、「残っている罪の性質に従って(罪人として)扱うことはしない」と10節にある通りなのである。


 そんな「神を恐れる者・神の子」とする計画を立てた、それが「主の良くして下さったこと」なのである。出エジプトも、バビロンからの解放も、全て、その計画の現れなのであり、その一つ一つを覚えて主をほめたたえよ、というのが詩篇103だ。


 その様な信仰の歩み、そのゴールが3~5節である。病の完全な癒し、新しい体、それは新天新地において成就するのであって、3~5節は、決して、現世ご利益を教えているのではない。私達は、神を恐れる者として歩み続けよう。

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