預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇88(コラの子らの絶望の中の賛歌)

 全体を通して、非常に暗く、沈痛な詩である。その様な嘆きの詩はダビデにも多々あった。だがダビデの場合、最後には信仰による希望で締めるのだが、この詩は最後まで絶望に満ちている。コラコラ、それでいいのか…と言いたくもなろう。
 詩人は、自らを死人同然と言う。そして「神の憤りがとどまっている」(7節)と。とは言え、決して詩人個人に対して神が怒っているというのではない。神は「死人」を拒み、見放しているという事、それが、この詩を理解する為のポイントだ。
 では「死人」とは? それは単に肉体の死の事ではなく「神との断絶」を意味している。そして、神と断絶したまま肉体の死を迎えたなら「滅び」だ。もはや救いのチャンスは無い(10~12節)。この詩によって、セカンド・チャンス(死後にも救いのチャンスがあるという考え)は否定されている。その点、詩人はまだかろうじて生きている。けど「死人同然」という非常に危険な状態なのだ。言わば、信仰を失いかけ(神と断絶しかけ)ているのである。
 しかし「祈りは届く」(13節)と、僅かな信仰が見られる。神との間に一本の糸がまだ繋がっているのだ。これこそ、この詩が伝えようとする最も大事な点である。つまり、殆ど死んだ(神に見放された)様な状態にあっても「しかし、祈りは届く」と信じる事が出来るのは何故か。それは勿論、まだ神と繋がっている(完全には断絶していない)からであり、その「繋がり」が、例えか細い糸のような微かなものであっても、断絶してしまわない限り希望はあるという事なのである。
 どんなに苦しくても、どんなに不信仰でも、どんなに弱っていても、神との繋がりを失わなければ、そこに希望はある。だから、生きる限り、神から離れてはいけない。「イエスは主」という言葉(信仰)を唇に保ち続けよう。その人の所には、主は贖い主として来て下さる。そうすれば、永遠の命の恵みは取り去られる事は無い。この詩篇を通して、その信仰を堅く保つ者となろう。そうであってこそ、この「絶望の塊」の様な詩も、益となる。そしてむしろ、神との繋がりの糸を太く強いものとされるように求めよう。

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