預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇99(どうすれば聖くなるのか)

99:1 主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。
99:2 主はシオンにおいて、大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。
99:3 国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。
99:4 王の力は、さばきを愛する。あなたは公正を堅く立てられた。あなたは、ヤコブの中で、さばきと正義を行なわれた。
99:5 われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。
99:6 モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。
99:7 主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。
99:8 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。
99:9 われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。



 礼拝への招きである。それも「主は聖である」からだ。それが3度出てくる。イザヤ6:3を思わせる。神がいかに聖であるか、完全に聖だということだ。
 しかし「聖」とは何か。
 それは「混じり気が無いこと・分離していること」であるが、果たしてそれが本当に理解されているか。
 一般的には「知徳に優れた人」「触れてはいけない、尊いもの」それが「聖」である。クリスチャンなら「心を美しくすること」を「聖め」と考えたりする。そして聖書は「聖められなさい」と教える。「神が聖であるから」だ。するとやはり、心を美しくし、優れた人になれということか。改めて、「聖」とは何かを知ることが必要だ。


 理解の鍵は「完全な分離」、離れていることだ。例えばマラソン。その「先頭集団」の中に、必ず誰かトップがいる。抜きつ抜かれつしつつも、必ず誰かがトップだ。が、それは「聖くない」のである。
「聖い」は、完全に分離してこそなのだ。団子状の先頭集団の中にいるのではなく、ブッチギリの単独でトップ、誰もついて来れない、追いつけない、近寄れない、唯一無二、孤高の存在、別格、次元が違う……神はそのようなお方であり、それが「聖」というものなのだ。それを言い表すのが1~2節であり、だから「主は聖である」と3節。
 その「聖」の故に神は、裁きと公正を成すことが出来る(4~5節)。当然、6~8節も、神が聖であるがゆえだ。
 つまり、モーセ、アロン、サムエル達は民を代表して神に呼び掛けた→神は答えて律法を与えた→民は律法に従っていけにえを捧げた→それで神は赦してくれた→しかし、民の仕業には報いた。
 赦しの神なのに、自身の民を裁いたのである。毅然と、誰も真似出来ないほど厳しく。それが神の「聖さ」なのだ。完全に分離している。混じり気が無い。救いと裁きの間に曖昧さは微塵も無いのだ。
 ここに私達にとって重要な「どうすれば聖められるのか」が、ある。


 すなわち、キリストを信じる者が救われるのは、神が聖いおかげだということなのである。その神と同じように聖くなるということは、滅び・偽りから完全に離れて、全き救いの中に入ることなのである。そして神との交わりの中に留まる、それが「聖められる」ということなのだ。


 私達は、偽りから完全に分離されて、神の聖さの中にとどまろう。

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