預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇100(私達が、ではない)

100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。



 知れ、そして喜び、感謝し賛美せよと言う。それほどに主は慈しみ深い、と。何のことを「知れ、喜べ、感謝せよ」と言うのか。「主が私達を造られた」ことをだ。


 神こそ造り主であることはクリスチャンなら知らないはずはない。ただ、3節の「私達は主のもの」という部分が70人訳では「私達がではない」となっているところがポイントだ。これは直前の「主が私達を造られた」を受けてのことだと理解するべきだろう。つまり、神が人を造ったのであって、私達(人)が神を造ったのではないということだ。神は命の源、命そのもの。だから神である主は言われた。「私が道であり、命である」と。命は、命からしか生まれない。そして、道そのものである主を通ってでなければ、永遠の命には入れない。結局、地上の命も、新しく生まれた(主の民・その牧場の羊となれた)のも――いずれの命も――私達が何かをしたからではなく、キリストによるのである。
 だから、天国への道(キリスト)を感謝しつつ、その大庭に入れ(4節)と言う。何の働きもない者を信仰によって義と認めて下さる、それが神の(とこしえまでの)恵みである。その救いの道は代々に渡って変わらない。要するに、律法主義では天国に入れないということだ。
 所が、クリスチャンの最大の敵の一つが、その律法主義なのである。加えて、過剰な積極思考や御言葉の乱用も困ったものだ。例えば、Ⅱ歴代誌7:13~14は、不信仰なイスラエルを裁く場合のことを言ってるのであって、一般的な疫病(例えば、新型コロナウイルス)のことではない。神はご自身で悪を行わないお方である。ただし、裁きにおいては病を送ることはある。最たるは「滅ぼす」それが神の裁きであり、それは決して悪なのではない。むしろ、正義なのだ。
 聖書は、「神が言いたいことは何か」を読み取るべきものであって、「自分が言いたいことを権威付けるのに丁度よさそうな言葉を探す」ためのものではない。私達は主のもの、その牧場の羊だ。それを「知れ」と詩人は言う。それが「神の言いたいこと」である。
 「私達がではない」
 生まれるのも、神の子とされるのも、神の恵みだ。その恵みはとこしえに変わることがないのである。その感謝と賛美を失わず、天国の門を通る者であろう。

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