預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇95(イスラエルは反面教師)

 バビロン捕囚から解放され、「さあ神を崇めよう」との招きから始まる。
 かつてイスラエルは既に一度、大きな神の救い(出エジプト)を体験していた。が、そのあと神を崇めず偶像を作って「我らの神よ」と拝んだ。恩知らずもいいところだ。そんなイスラエルを神は見放すかと思えば、そうではなかった。苦難の時に、またもや、今度はバビロンから救ってやったのだ。が、さすがに今度は警告を与える。「あの時の様に心を頑なにするな、神を崇めよ、信頼せよ、さもなければ安息に入らせない」と。それでもイスラエルは変わらず、やがてはせっかくの救い主をも拒み、ついにはローマ帝国に滅ぼされてしまう。
 これは教訓である。真のイスラエルが、本当の約束の地(新しいエルサレム)に入るにはどうあるべきかということの。そのモデルである肉のイスラエルは2度しくじった。そして、もしかしたら心の頑なさゆえに本当に安息に入れなくなるかもしれないのだ。
 イスラエルが神を試したのは、信頼していないからである。そして、神を信頼しないということは、天国への道を知らないということでもあるのだ(10節)。たとえ毎週土曜に安息を守っていても。そしてクリスチャンが毎週日曜に礼拝していても、である。それはイスラエルの歴史を通して既に教えられている。安息(本当の約束の地・天国)に入る為に必要なのは、神への信頼だと。天国を支える神を信頼しないでは、そこに入ることも、その所で生きて行くことも出来ないのである。
 だから詩人は、イスラエルを礼拝へと招く。神の御業を賛美して、神への信頼を養うためである。そこから学び取ることが必要だ。イスラエルをマネして心を頑なにしてはいけない。イスラエルは反面教師だ。決して特別扱いではない。肉のイスラエルなど石ころで代わりが出来るとバプテスマのヨハネは言った。救いを必要とする罪人であるということにおいては他の民族との間に区別は無いのである。
 ゆえに、ユダヤ人に対してだけ殊更に、ではなく、誰にでも礼拝への招きをするべきなのだ。共に救い主の偉大な御業を崇めて、神への信頼を養おう。誰よりも、既に神の救いを受けた私達こそが、いよいよ神を信頼するために。「さあ、来たれ。主を崇めよう」

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