預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇59

 忠実に仕えるダビデを妬んで殺そうとしたサウルは、まさに不正な裁き人(力ある者)だ。ヨブに罪があるから、と決めつけた友人達も同様だ。そんな彼らを罰して、とダビデは言う。それは、偽りを語る者を、もみ殻の様に吹き飛ばして、という事なのだ。彼らは夜、活動する(6節)。闇の力、サタンの働きである。そして「その偽りに誰も気付きはしない」と神を侮っているのだ(7節)。しかし、神は知っている。真理なるキリストが偽りに葬り去られる事など無いのだ。その神の力が私を守る砦だとダビデは言う、それが、この詩の大方の内容だ。
 ただ不思議なのは、11節で「彼らを殺してしまわないで」と言いながら、13節では「彼らを滅ぼし尽くして」と言っている所だが、決して錯乱しているのではない。偽り者が彷徨っている姿を見て、「惑わされないように」という事を思い出す為に「殺さず、放浪させて」(11節)と言うのである。そして「偽りそのものを滅ぼし尽くして」と願う。それは、神が支配者である事を彼らが知るようになる為(その為に「殺さず、放浪させて」という事)なのだ。ただし、それは願いに過ぎないという事を忘れてはいけない。確かに、聖書に書いてあるとはいえ、それは決して、神の約束なのではない。むしろ、聖書が教えるのは、悪が完全に滅ぼされるのは、最後の最後の時である、という事だ。それまでは「毒麦は放っておけ」と主のたとえ話でも言われている通り、この世が闇の支配下にある限り、偽りや惑わしは無くなりはしない。闇の力は最後まで働くのだ。
 しかし、どんなに闇の力が働こうとも、勝利は主にある。それゆえにダビデは(私達も)歌うのである(16節)。この神こそが逃げ場であり砦だ。何故なら、神は何が正しいかを知っておられるからだ。麦と毒麦を正しく選別なさるお方だ。だからこそ私達は、キリストの本当の弟子になる事が必要なのである。そうであってこそ本当の自由になる。
 だから今、どれ程闇の力が働いていようと、失望してはならない。苦しみ、悲しみ……は、去る時が来る。それまで、神の正しさの中に留まり、神を崇め、神を逃げ場とし、心を支え守って頂こう。神こそ、私達の砦、私達の恵みの神であるのだから。

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