預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇58

 力ある者達が不正な裁きをしている。何が不正か。それは、公正な裁きをしないことが不正なのであって、裁く事自体が不正なのではない。主も「正しい裁きをせよ」(ヨハネ7:24)と言われた。そう、この詩は「公正な裁きの大切さ」を示す詩だ。ゆえに、この詩は、不正な裁判官を「悪者共」と呼ぶ。ただし「不正な裁判官」は比喩であるが。
 では、それは誰の事か。3節によれば、悪者共は生まれた瞬間から踏み迷っているとの事だが、どれ程の大悪党でも、生まれた瞬間から……という事はない。考えられるのは、堕天使だ。天使長からサタンに、その誕生の瞬間から完全に悪の存在となった、力ある者だ。そして、人を不正に裁こうとする。義と認められたクリスチャンをも告発して地獄に引きずり落そうとするのだ。更に言えば、神を恐れず、偽りを語る(神の教えをねじ曲げてしまう)人々もそうかもしれない。ガラテヤ1:6~7にも、他の(偽りの)福音を語って教会をかき乱す人々がいる事が記されている。だとすれば、3節は、人間はみな生まれながら罪人でさまよっている、という事であろう。その滅びの道(偽りを語る事)をやめようとせず、聞く耳も持たない。
 結局、不正な裁判官とは、偽りで人を苦しめる存在を表すと言える。サタンであり、神の教えをねじ曲げる人達、ヨブの3人の友人の様に、神についての真実を語らない人達だ。彼らはまさに不正な裁判官の様に、ヨブに罪があると決め付けた。
 偽りは退けられるべきだと、非常に厳しい表現で、この詩は言う(6~8)。全ての惑わし、偽りの教えは、もみ殻の様に神が吹き飛ばす。正しい者はそれ(正しい裁き)を見て喜ぶ(9~10)。神は、正しい者を見捨てはなさらないのだ。だから大切なのは、信仰を守り通す事、惑わされない事、真理を手放さない事だ。その人は報われる。偽りの裁き人が見逃される事はない。そして、神を求める者が見失われる事も無いのだ。これが、公正な裁きの大切さを示す詩である。神こそが正しい裁判官なのだ。そこに希望が、救いがある。正しい者はそれを見て喜ぶ。ゆえに、この詩も、賛美歌なのである。私達は、正しい裁きを喜び、最後まで耐え忍ぶ者となろう。

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