預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇60

 多くの場合、詩人の個人的な詩を神が用いて、神からのメッセージとしている、それが聖書としての詩篇だ。しかし60篇は表題にあるように、ダビデ自身が何かを教える為に書かれた詩である。彼は何を教えたかったのか。全体の文脈から読み取ろう。土台としては、神の民(ダビデ)の一時的な敗北(1~3節)がある。だが、そのままでは終わらないという信仰もある(12節)。だから神の助けを待ち望む(5節)。ただ、8節では、ペリシテ(イスラエルの敵)を応援しているかのようだ。が、実は、モアブやエドム共々に屈服させようという事である(新共同訳参照)。7節にある通り「イスラエル12部族は私のものだ」というわけである。この、主にあってのみ、戦いの勝利がある。神が共にいて下さらなくて、どうして敵の所に行けようか、と9節。だから、私達を拒まないで一緒に……というのが10節。そして最後(11~12節)、「神が共にいるなら大丈夫」、それこそダビデが教えたかった事だ。
 しかし、何故、そんな事を教えなければならなかったのか。それは言わば、当たり前の(誰でも知ってる)事であるはずだ。神は共いる。だから大丈夫なのである。では、それなら何故、一時的にでも敗北する事があるのか? 何故、神に拒まれるという事が起きてしまうのか? 実は、その「一時的な敗北」は、神の助けを求めるべきだと気付くようになる為の警告だ、というのが4節だ(新共同訳参照)。
 例えば詩篇23は、リアルな人生の苦しみに対処する為の信仰を教える。つまり、人生には死の影の谷を歩く事も、敵に直面する時も有って、それでも「恐れない」と言えるのは、主が共にいるからなのだ。
 神の民(神の子)を「私のものだ」と、神は守る。だから大切なのは、神の子であり続ける事だ。神が共にいるから大丈夫という所に留まっているべきなのである。そこから離れる時、敗北がある。しかし、その敗北を警告として受け止めて、神の助けを求めるべきだと気付くなら幸いだ。神は受け入れて下さる。あの放蕩息子の父のように。
 人生に苦難はある。ダビデも苦戦した事があった。しかし、神と共に歩む時、その苦しみを乗り越えて、勝利を取る事が出来る。神の約束に信頼し、思い煩い(結果がどうなるか)を神に委ねて歩もう。

×

非ログインユーザーとして返信する