預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇61

 息子アブシャロムに命を狙われるという苦悩の中でもダビデは神の守りを信じた。それが信仰というものなのだろう。しかし、エルサレムに帰りたい(逃亡生活を終えて、神の都で安心して礼拝したい)と願うのはもっともな事であるし、その願いに神は答えて下さった。それゆえダビデは言う。いつまでも王座を守り、主の御名を崇めさせて下さい、と。以上が、ダビデの個人的な心情としての、この詩である。
 さて、この、ある意味、特殊な状況を歌った詩の中に「誰にでも当てはまる普遍的なメッセージ」があるのだろうか。神はこの詩を用いて、聖書を読む者に何を伝えようとしているのか。
 特徴的なのは6~7節だ。王座に着いているのはダビデ自身なのに、その王を「彼」と(自分ではない他の誰かのように)呼んでいる。これは単なる表現技法ではない。霊的な理解が必要である。私達とダビデにとって「彼」と呼ばれる王は誰か。それは「キリスト」である。そう「彼」こそが聖書の主人公、キリストなのである(参照イザヤ53章)。だから6~7節は「キリストがずっと王でありますように」という事であり、そういう願いを持つ事が必要だというメッセージ、それがこの詩なのである。しかし何故、そんな願いが必要なのか。誰かがキリストの王座を奪おうと狙っているのか。黙示録1:5~6によれば、クリスチャンは神の王国だという。よく言われるように、私達の心の中にキリストの王座があるのだ。そしてキリストが王として心を支配して下されば、その王国は平和に治められる。所が、その王座からキリストを引きずり降ろそうとする力が働く。知らず知らずの内に自分が王となろうとするのである。だからこそ、願いを持つ必要があるのだ。「キリストが私の心の王座にいつまでも着いていて下さい」と。そうすれば、とこしえに神の御名を誉め称える事が出来る。
 ダビデは、息子から王座を狙われて苦しんだ。私達は、自分自身が王になろうとして苦しむ。しかし、主こそ王、私達の避け所だ。私達もダビデのように願おう。「私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです」と。そのようにして、神を王とする神の国で、安心して生きる者となれ、それがこの詩のメッセージだ。

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