預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇62

 口では祝福する(すなわち、顔と顔を合わせる間柄だ)が、彼らは心の中では呪っていて、ダビデの命を狙っているという。息子アブシャロムと彼に与する家来達の事だ。悲しく辛い苦難だ。そんな中でダビデは「神こそ我が救い」と信仰を奮い立たせる。そして民に対しても「どんな時にも神に信頼せよ」と。それはもはや、ダビデとイスラエルだけの事ではなく、全ての信仰者への励ましだと言える。
 ただ、その後「身分の低い人々は虚しい」との言葉が続くのだが、それは「地位と名誉こそ全てだ」という事か。しかし、その続きには「高い人々は偽りだ」とある。これはどうしたことか。
 実は「高い人」とは、王子であり敵の頭領であるアブシャロムの事なのだ。そして「身分の低い人々」は、ダビデを裏切った家来達である。彼らを合わせて秤にかけると「息より軽い」と言うのである。つまり「地位」は、人の目には価値ありと見え、重んじられる。次期国王アブシャロムだ。それ故に、付き従う(謀反に加担する価値があると考える)人々がいる。しかし、それらは虚しく、偽りであり、神の秤では「息より軽い」、何の重みも無いという事だ。
 Ⅰコリント1:26~29に「教会の中には、この世の権力者は多くない」などとある。むしろ、弱い人々こそが選ばれている、と。それは「この世の地位・権力(神の前に、息より軽いもの)を誇らせない為だ」というのである。そして言う。「誇る者は主にあって誇れ」と。
 そういう訳で詩篇62は「権力・地位・富に頼るな」と言う(10節)。そこに信頼・愛・支え・慰め……は無い。息より軽いものにそれらを求める事は出来ないのだ。しかし、キリストには、それら全てがある。だから、もし誇るのなら「主にあって誇る」べきなのだ。
 ダビデの悟り、それは「力は神のものである」ことと「恵みも神のもの」だという事だ(11~12節)。そして神は、人の仕業(この世の力を誇るのか、神を誇るのか)に応じて、それ(力・恵み)を報いる。この世の力を誇る者に対しては、神の強大な力で対するのだ。しかし私達は、神の力と恵みを誇ろう。そうすれば神は、御自身の力と恵みで報いて下さる。その神の力と恵みによって生きる者となろう。

×

非ログインユーザーとして返信する