預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇63

 荒野での逃亡生活でダビデは、気を失うほどの渇きを覚えた。と言っても、のどの渇きではない。神との交わりに渇いていたのだ。すなわち、御言葉を聞く事、賛美する事だ。そこに神は御自身を現される。
 注目すべきは、その神との交わりを求めて賛美した場所をダビデは『聖所』と言う事だ。エルサレムにいるのではない。幕屋でもない。『水のない、砂漠の衰え果てた地』、荒野をだ。何故か。それは、そこで神とお会いするからである。神との会見の場所、そこが「聖所」なのだ。神を慕い求め、神と向かい合うなら、それがどこであれ「聖所」なのである。例えば、ヤコブがエサウから逃れて石を枕にして眠った場所。そこに神が現れた。それでヤコブは、その場所を「ベテル(神の家)」と呼んだ。神の臨在がある所、そこが聖所であるからだ。
 そういう意味で、クリスチャン一人一人が神の聖所であると言える。そこに御霊なる神が住まわれるからだ(Ⅰコリント6:19)。そして、それ(主が共におられる事)こそが恵みである。その恵みは『いのちにもまさる』とダビデは歌う。それゆえ『生きているかぎり、あなたをほめたたえ』と、神との交わりを大切なものとした。
 人生とは、荒野を行くようなものかもしれない。だからこそ「生きている限り」神との交わりが必要だ。それ無しで、どうやって荒野を乗り越える事が出来るだろうか。詩篇23でもダビデは「いつまでも主の家に住まいましょう」と言う。聖所で神との交わりを持ち続ける、という事だ。それが、人生という荒野を乗り切る為に必要なのである。
 神に頼らずして天国に入る事は出来ない。神との交わりを保ち、神との平和があってこそ、神の国に入れる。その為に、聖所で主を仰ぐ礼拝が必要なのである。そこに主はおられ、そこで主との交わりを持つ事が出来るからだ。ダビデがしたように、それは、たとえ荒野であってさえ可能なのだ。つまり、人生のどんな辛い時(荒野のような状況)でも、神を求める時、そこが聖所となり、神は恵みを報いて下さるという事だ。命に優る恵み(永遠の命、変わる事のない平安)を、地上で生きる(荒野を乗り越える)力、助けを、神は与えて下さる。だから私達も、どんな時でも神に渇いて、恵みを慕い求めよう。

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