預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇64

 「恐るべき敵」とはアブシャロムか、サウルか、それとも近隣諸国の王か。誰から攻撃されているのか、それが問題だ。その敵は言葉の暴力を振るう(3~4節)。それも「全き人」に向けて(4節)だ。ただし「全き人」とは、罪の無い完全な人の事ではない。ノアのように、どんな時も神のしもべとして神と共に歩もうとする人の事だ(創世記6:9参照)。その神のしもべ(信仰者・クリスチャン)を攻撃する言葉、それも「恐るべき」攻撃とは何か。それは単なる道徳上の問題ではなく、信仰者に致命的なダメージを与えるかもしれない霊的な問題なのだ。
 まず、言葉の攻撃(悪口)は、そもそも罪の表れであり、神への反逆ともなる。何故なら「言葉」も神が造った「良いもの」なのであり、それを悪くするのだから、それは「良いものを造られた神」への反逆だと言えるのである。しかも、それを神御自身に向けるとすれば、それは「神を恐れない行為」となる(ルカ23:39~40参照)。当然、神のしもべ(神が義と認めている者)に対しての悪口も、神を恐れない行為だと言わざるを得ない。とは言え、罪を指摘し、責め、戒める事は必要だ。悔い改めに導く為である。それをしない(無条件に赦す)のは、悔い改めのチャンスを与えないという事であって、美徳などではない。それは「神が義と認めた者を勝手に裁く事」に通じる(ローマ14:4参照)。
 さて結局、神のしもべへの恐るべき言葉の攻撃とは何か。彼らは共謀して巧みに、その悪事(神への反逆)を見破られないようにしている(詩篇64:5~6)。言い換えれば、表面的には神を恐れているように見えているという事だ。しかし実は神に敵対している、それは誰か。偽預言者、偽教師、偽兄弟である。彼らの言葉(偽りの教え)こそが、神のしもべに滅びをもたらす「恐るべき攻撃」なのである。だから「その敵から私の命を守って」と詩人は訴える。これは実に(異端の出現の)預言としての詩なのだ。そして事実、それは初代教会の時から早くも現れ、今も多くの人が惑わされているのだ。だから新約聖書は「異端に気を付けろ」と何度も注意するのである。勿論、彼らはやがては自滅する(7~8節)が、巻き込まれた者は共に滅びる。私達は、混じり気の無い御言葉を喜びとし、主に身を避けよう。主こそ砦である。

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