預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇106(神は親バカじゃないから)

 105篇と同じ構成(まず賛美、次に歴史、そして結論)だが、違いは歴史の部分だ。105篇は「イスラエルになされた神の御業」の歴史だが、106篇は「イスラエルの不従順と忘恩」の歴史が記されている。それが13~33節。エジプトから救い出された直後に神に逆らい、神を試み、偶像を拝んだ。そんなことの繰り返し、それが「不従順と忘恩」の歴史だ


 極め付けは37~39節。霊的姦淫、神が最も忌み嫌うことである(40節)。それを分からせるために、人間関係において「姦淫してはならない」と戒められたのである。それは良くないと誰でも分かることを見本として「霊的姦淫がいかに神に嫌われるか」を示したのだ。例えば、キリストと教会の関係をイメージしやすくするために「夫婦は一心同体」と教えるのと同じだ。夫婦は、あくまでもサンプルなのであって、本当に「一心同体」となるのはキリストと教会なのである。


 とにかく、神に忌み嫌われたはずのイスラエルだが、それでも神は彼らを憐れまれた(44~46節)。「やはりイスラエルは特別に愛されてるのだ」とある人々は言う。もしそうなら、神の愛は、共依存的だということになってしまうのではないだろうか。


 なぜ何度裏切られても見捨てないのか。それは、契約の故である。契約とは、結局「キリストを信じる信仰によって義とする」という新しい契約(福音)に到達するためのものだ。その計画を途中で放り出すわけにはいかないから(イスラエルの民に対しては忌み嫌いはしても)サンプルとして選んだイスラエルの上に「計画」は実行しなければならなかったのである。あくまでも全人類の救いの計画の完成のためだ。決して、ユダヤ人大好きで親バカになっているのではない。


 そのようにして、世界中から信仰による神の子を集める。約束の地へ。カナンをサンプルとして示された「本当の約束の地」天国へだ。真のイスラエル王国は、地上にではなく、新天新地に現れるのである。そこにおいて実現する、それが47~48節だ。その計画の壮大さの故に神を誉めよ、と賛美するのが1~2節である。


 幸いなのは裁きを守る者だ(3節)。神の裁き、すなわち「信仰によって義とする」という裁きだ。だから「偽りから離れよ=聖くなれ」と聖書は言う。それが「裁きを守り、正義を行う」幸いな者なのだ。

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