預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇98(悲鳴が聞こえる)

 これも、バビロン捕囚からの解放の喜びの詩であり、キリストを信じる者が天国に入ることを教えるモデルである。
 まず、神の救いを喜び叫べ(4~8節)と言うが、その中の4~6節は分かりやすい。普通に、教会でも毎週そうしている。賛美だ。ただ、幸いなのは「転げ回れ」とか「踊り狂え」などとは書かれていないことだ。確かにダビデは、主の前で狂った様に踊ったが、それは教義ではない。個人の信仰的体験を、普遍的教義としてはいけないのである。
 大事なのは「聖書が何を教えているか」だ。それは「聖書に何が書いてあるか」とは違う。例えばヨブ記には、ヨブの友人達の間違った信仰の言葉が多く記されている。聖書に書いてあることを全て真理として鵜呑みにするのではなく、何が真理(神が教えようとしておられること)かを見分けなければいけないのである。
 さて、問題は7~8節だが、海、川、山、全て神が造ったものであり、それゆえに神々しくも見える。造り主なる神を知らない人々は、それを拝みもする。しかし、どうせ拝むなら、それを造った神を拝むべきだ。そう、もし富士山が神々しく見えるなら、それは神の栄光なのである。だから、山も川も海も活き活きと輝け(その妙なる存在を以って神を崇めよ)ということだ。
 所が、今や自然は破壊されて、歪んで、悲鳴を上げている。同じように人間も、神が造ったのにもかかわらず、苦しんで、悩んで、悲しんで悲鳴を上げている。それは全て、罪から始まっている。だから神は、それら狂った全てをリセットしに来る、それが9節だ。根本的な原因である罪を裁く、それが正義であり公正だ。その時は確かに来る。しかしキリストを信じる者には、永遠の命と天国の希望がある。それが救いであり、そのモデルが出エジプトと、バビロン捕囚からの解放なのである。それを教えるこの詩、そのメッセージは、確かに来る裁きの時まで神の栄光を現わすようにということだ。救いの喜び、感謝、希望に満ちて、活き活きと生きる、それが神の栄光となるのである。
 確かに来る裁き。しかし、その時、キリストを信じる者は救われる。この確実な、大いなる希望があれば人生は明るくなる。

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