預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇73(真の信仰)

 神はイスラエル(本当の意味での…、神の約束を信じて生まれた神の子)に対して慈しみ深い。しかし、と詩人は、それに反するかのように自らの歩みは「すべるばかりだった」と言う。その理由は、悪者が栄えるのを見て妬んだからだと。神に背く者が(神に従わないのに)何故栄えるのか。神のしもべが何故苦しみに遭うのか。「主よ何故ですか?!」と言いたくもなるというものだ。しかし詩人は「悪者とはそういうものだ」(12節)と開き直る。そう、それが「この世」(曲がった時代、悪い時代、サタンの一時的な支配下)だと聖書は言うのである。ゆえに「この世においては患難がある」と主は言われた。
 それは不公平だ、と感じるかもしれない。ゆえに「信仰者も繁栄を(悪者よりもっと)」と考えるなら、それは「妬み」かもしれない。少なくとも、神に従っていても尚も苦しむ事があるのは間違いないし、最終的には魂を神に委ねよ(Ⅰペテロ4:19)と聖書は言う。それを受け入れられるかどうかだ。その点、詩人は悩んだ(13~16節)。その後、神の前に出て、悪者の最期がいかであるかを悟った(17~20節)が。
 だから、神は確かに神の子に慈しみ深くあられるけども、その「慈しみ」とは、人間の勝手な欲望を満足させる事ではなく、苦難での助け、慰めであり、最終的には天国を与える事なのである。なのに、悪者を妬んだ自らを詩人は反省した(21~22節)。そして、そんな愚かな者と共に神はいて、真の信仰へと導く(23~24節)と言う。真の信仰、それは「神こそ私の分の土地」(25~26節)だという事であり、その信仰へと私達を、神は導きたいのである。それを見失うなら滅びる(27節)。主も言われた。神を知りながら、多くの者が広い道(滅びの道)を行くと。「しかし私にとっては、神の近くにいる事が幸せ」(28節)だと詩人の言う通り、私達も「広い道を行く人々」に流されてしまわないように「神こそ私の取り分」とする者となろう。苦しみの中で心が思い乱れる時もあるかもしれない。だが、どれ程の激しい逆流の中でも、ダビデのように「尚も神を褒め称え」よう。そのような「神の子」に対して、神は慈しみ深い。助けと慰め、憐れみと恵みを、そして天国を与えて下さる。だから、神の近くにいる事を幸いとしよう。

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