預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

少し趣向を変えて旧約をランダムに(ホセア6章)

 1~3節のイスラエルの悔い改めの言葉は、本気ではなく、その場しのぎのお題目である。神は、そんないけにえより、誠実を喜ぶ(つまり、全焼のいけにえより、神を知ることを喜ぶ)。
 本当の信仰者は、神を知っている。私達は、神を信じるだけでなく、知ることが必要だ。
 勿論、見ずに信じる者は幸いである。私達は、そのように天国、復活、永遠の命、神を信じた。だが私達は、天国はまだ知らない(まだ、行ってないから)。しかし、神は、天国などとは違い、今、知ることが出来る。もし、ただ単に「神は愛だ」と信じているだけなら、その人は、実際には、神の愛を知らない、ということだ。勿論、信じなければならない。が、神の愛は「知る」ことが可能であり、それを神は喜ぶ。
 私達は、日々の生活の中で神を知ることが出来る。主の恵み、憐れみ、祝福を受けることによって。ただ、残念ながら、人間は、その恵みを忘れる。神の力によってエジプトから救われたイスラエルが、すぐに偶像に頼ったように。そこで神は、祭りを命じた。過ぎ越しを忘れない為に、神の恵みを思い起こす為に。
 では日曜の礼拝(ある意味、祭り)は何の為か。それは主の復活(全ての問題に対する勝利)を思い起こす為。神は私達を助けることが出来る(どんな問題も乗り越えさせて下さる)お方であることを思い出す為。すなわち、神を知る為。この礼拝がお題目のようであってはならない。

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