預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇も続きますが…(伝道者の書3:11~14)

 神のなさることは全て時にかなって美しい……はずであるが、つい、「神様、何故ですか!」「どうしてですか!」「まだですか!」と不平をこぼしてしまいやすい。時には、神様に見放されたと感じることもあるかもしれない。それは、聖書が言うように、神のなさることを初めから終わりまで見極めることなど出来ないのだから仕方ない。と言うよりも、見極める必要がないのである。つまり、神様の全てを理解出来なくても、神は神であり、愛の神として私達を愛して下さっている。それは例えば、妻が夫のことを完全に理解してなくても、夫は妻を愛し、家族を守るように。
 必要なのは、神を恐れること。信じ従うことである。ヨブがそうであったように、神を主として認める時、祝福と恵みを受けるのである。そして、13節にあるように、食べたり、飲んだり、という「労苦の中に幸せを見出す」というプレゼントを神様は下さる。時には、癒し、奇跡……というようなプレゼントも頂ける。それは恵みであり感謝である。が、「それ以上の、魂を満たす永遠の喜びというものは、この世には無い」と言うのが12節だ。
 本当の喜び、本当の幸せは、天にある。だから、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と主は言われた。罪人が神の子とされる、それこそが最大の奇跡・恵み・祝福だからである。それゆえ「天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)と聖書は言う。そのために神は人に「永遠を思う思い」を与えた。
 今、たとえ、神様のなさることが分からなくても、永遠を思い、神のなさることは時にかなって美しいと信じ、御言葉に従って歩む者となろう。

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