預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇73:1(似て非なる福音を捨てよう)

 「神は慈しみ深い」という宣言である。ただし、イスラエルには、である。同時に、心の清い人に。それはつまり、ヤコブ(神を求める一族=イスラエル)であると詩篇24は言う。では神はイスラエル民族以外には目もくれず、慈しみも示さないのか。それ以前にイスラエル人は皆、心が清いのか。いや、イスラエルという国に犯罪が無い訳ではない。警察も軍隊もある。では、心の清いイスラエルとは誰なのか。
 そもそも人間には罪がある(清い人、義人はいない)。人は完全にはなれない。それでも、律法主義(行いの完全さ)によって救われようとするなら、ここまでやらなければ認められない、というのが「右を打たれたら左も出せ。父なる神と同じくらい完全になれ」という主の言葉なのだ。神と同じになどなれるはずがない。なのに「なれる」と異端の教えは言う。その始まりは、アダムとエバへの蛇の誘惑の言葉(あなた方の目は開け、神のようになれる)だ。
 福音にも、似て非なるものがあるというような事をパウロも言っている(ガラテヤ1:6~7参照)。「神のように完全になれ」という教えも、しかり。「イスラエル民族だけが特別」という考え方も、微妙に違うのである。つまり、確かに、神はイスラエルに対して慈しみ深いお方である事は間違いはないのだが、問題は、その「イスラエル」という概念なのである。パウロは言う。「イスラエルから出る者が皆イスラエルなのではない」(ローマ9:6~8)と。神の約束を信じて生まれた子供、それがイスラエルなのであって、そのモデルがイサクなのである。だから、イサクと同じように、神の約束(例えば、ヨハネ1:12、マルコ16:16等)を信じて生まれた神の子供(クリスチャン)が本当の意味での「イスラエル」(罪が無い・義と認められた=神の前に出る事の出来る聖い者)なのである。そして神は、その、約束の子(神の子供)に対して「慈しみ深く」あられるのだ。勿論、その他の全ての人に対して神は最大の愛(十字架による救い)を示しておられるが、その愛を受け取った人に対しては更に恵みと慈しみを施されるのだ。それが詩篇73:1なのであり、福音の預言であったという事だ。だから私達は、神の慈しみ深さに期待し、待ち望んで歩んで行こう。

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