預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇108(昔の脅迫状みたいに)

 108は、人間の煩悩の数とも言われるが、この108篇には悩まされる。と言うのは、1~5節は、詩篇57:7~11と同じ。残りの6~13節は、60:5~12と同じなのである。思い起こせば、53篇も14篇とほぼ同じだったが、それでも若干の違いがあった。しかし今回は、それさえ無い。全く、と言っていいほど同じなのだ。説教者泣かせである。しかし、そこで諦めては説教者の名が廃る。この詩からも学ぶべきことを探り出そう。そうでなければ108篇は不要なものとなってしまう。学ぶべきは、分別とわきまえ、見境を失ってはいけないということだ


 第一に、御言葉は継ぎはぎしてはいけないということである。だが、平気で行われているのが実態だ。例えば「始めは小さくても終わりには大きくなる」(ヨブ8:7)と「小さな群れよ恐れるな」(ルカ12:32)を合体させて「教会は大きくなるべき、大きい教会が正義だ」というような、聖書に無い教えを作り出してしまう
 そもそもヨブ8:7は、ヨブの友人の間違った考え神もそれを非難している)であり、ルカ12:32の恐れなくて良い理由は、大きくなるからではなく「小さくても御国は与えられるから」だ。その分別が必要なのだが、どうしたことか。


 するとダビデも、やってはいけない継ぎはぎを……? いや、聖書は誰のメッセージか。神だ。108篇は、決して人間が勝手に継ぎはぎしたのではなく、神の承認(御霊の導き)の元に編まれたものであるのだから、何の問題も無い。偽らざる神の御心なのである。その違いをわきまえなければいけないのである。


 では、108篇における主の御心とは? 1~5節の、「魂よ目を覚ませ」(57:7~11)は、57篇では「魂は神を賛美することに目覚めよ」というメッセージだったが、108篇では、賛美ではなく、神が共にいるなら大丈夫だ」(60:5~12)ということに魂を目覚めさせたい、ということなのだ。もし、そのことに魂が目覚めず眠ったままなら、やがて人生の壁に突き当たる。しかし、目覚めるなら、どんな時も神に信頼して、平安と感謝と喜びを保つことができる。
 悩みの多い世の中だからこそ、神が共におられるなら大丈夫だということに、魂において目覚める者となり、平安を保とう。

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