預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇114(脱出!)

 出エジプトという「救いの青写真」(それは、第二の出エジプトである「バビロン捕囚からの解放」を経て、第三の出エジプト「キリストによる救い」へと昇華する)を通して語られる詩なのであり、言わばクリスチャンにとっての「ハレルヤ詩篇」である。


 事実、クリスチャンは、出エジプトと同じように、この世から脱出し(使徒2:40参照)、聖霊の宮(神の住まい=聖所)となった。それを、この詩(1~2節)は語っている。


 しかしながら、確かにイスラエルは「エジプト」という異なる言葉の民から脱出したが、日本のクリスチャンは大抵は日本で救われて日本に居る。元々、同じ言葉の民の中に居たし、救われてからもそれは変わらないはずだ。その点は、出エジプトとは一致しないのだが、どう理解すればいいのだろう。


 実は、クリスチャンは例外なく「異なる言葉の民の中から」脱出したのである。それは「異なる価値観に基づく言葉を語る人々の中から」という意味だ。それは全然違う言葉なのだ。まるで異言であるかのように、話が通じないのである。そんな経験はないだろうか。


 大切なのは、私達は、そこから出たのだから、いつまでもこの世の法則に従った考え方をしてはいけないということだ。利得を求めるとか、数の力を求めるとか、そういうものを信仰の世界に持ち込むべきではない。
 聖書は「古い人を脱ぎ去れ」「心の一新によって自分を変えなさい」と言う(ローマ12:2)。そして「何が神に喜ばれるかを見分けなさい」(エペソ5:10)と。それが「光の子らしい生き方」なのだ。そうすることによって私達は「神の聖所」となる。それが、この世から脱出した光の子の生き方だ。


 古いもの(富・名声…)は真の命を守る為には何の役にも立たない。全ては過ぎ去る。しかし主は、砂漠で水を与え、人に命の水を与えて下さる。それを飲む者は生きる。川が逆流するように、全ては益に変わる。
 その為に私達は、この世の中に生きながらも、脱出し続けるのだ。古い価値観と考え方、偽りの教えから。そのようにして神の聖所である私達の魂を聖めよう。聖所に、神の国のものでないものが混じっていてはいけないのである。

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