預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

キリストはどこにいるのか(雅歌1:5~8)

 「あなたがこれを知らないのなら山羊を飼え」(8節)という不思議。
 「あなた」(女の中で最も美しい人=神の目に高価で尊いとされた信仰者)は何を知らないのか。それは「羊飼い(キリスト)の居所」である(7節)。主の牧場はどこなのか、どこで命の水を飲ませて頂けるのかを見失っているのである。同時に、自らを「黒いけど美しい」と言いながら、その黒さを恥じ(罪意識に苛まれ)ている。そうなってしまう理由は、兄弟(原意は、同盟・同職など仲間を指す)が日焼けを無理強いする(罪意識を増幅させる)からだ(6節)。つまり、同じ神の子である兄弟から、不完全さを責められ、完全になる事を強いられて、自己嫌悪に陥るのである。これがキリスト教会における深刻な問題である事を私達は知っている。神の目には「黒いけど美しい」のに、その黒さにだけ注目させて「美しさ」を塗り潰してしまうのだ。そして、キリストによる平安を見失わせる。「あなたの仲間の群れの傍ら」に居ながら遊女のように(顔覆いをして)虚しく佇むしかない、その絶望。「あなた(キリスト)の仲間」とは誰か。キリストの同労者・牧師だ。が、悪い羊飼いなのだ。雅歌は、それを預言的に語っていたという事だ。何故、クリスチャンが教会で重荷を負わされて苦しむのか……あなたがこれを知らないなら、と言うのが8節なのである。
 そこで「羊の群れの足跡について行け」と言う。それが解決への道だ。何故なら、主の羊は主の声を知っているからだ(ヨハネ10:4)。ついて行けば、辿り着く。真の羊飼いなる主の元に。
 そして問題の「子山羊を飼え」だ。色々な解釈があるが、正解は不明とされている。しかし、誰にも分からないようなものを神は何故聖書にしたのか? 誰にも分からないで済ませていいのだろうか? 聖書が書かれた目的は何か。キリストを信じて命を得る為だ(ヨハネ20:31)。ならば当然、雅歌もそのライン上(福音を伝える為)にあるに決まっている。少なくとも、ハッキリしているのは、キリストの元に留まれという事だ。「子山羊を飼う」が何であれ、キリストの傍らで生きて行けという事である。雅歌を福音として理解するなら、こうなる。そして、その福音が力であり、信じる者に命を得させるのだ。

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