預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

12月23日、結審での最終弁論。

原告番号1 金本友孝


 この弁論は、私たち避難者の被害について述べるものですが、最後の弁論として強調したいのは、その金額ではありません。経済的損失などは言うまでもないことですが――あえて言えば、収入がゼロになるなど非常に大きな損害があります。けれども、それよりもっと深刻な、生きるために最も必要な「大切なもの」を奪われた、その「被害」について申し述べたいと思います。
「心の時代」と言われるようになって、もう随分と年月が経ちますが、その心を守ることが出来ないまま、絶望のあまり自ら命を絶つ人が毎年、驚くべき数にのぼります。特に、このクリスマスの時期は、その数が激増するそうです。何故でしょう。新しい年、将来に期待を持つことが出来ないからです。希望が無いからです。よりどころが無いからです。私は牧師として、そのような方々に寄り添い、人生を立て直すお手伝いをしてきました。中には、残念ながら本当に命を絶ってしまった人もいます。けれども、なんとか生き残った人が、人生をやり直そうと決心してくれた時には、牧師をしていてよかったと心から思ったものです。とにかく、多かれ少なかれ、人は何かしらの悩み苦しみを抱える中で、救いを求め、生きる力を求めて教会にやってこられます。その様にして、いわき市の教会「いわきホームチャペル」には40名ほどが毎週日曜日の礼拝に集うようになっていました。そして、そこで聖書を中心とした愛の交流があり、信頼関係があり、家庭的な安らぎの場所として育まれていた、それが「ホームチャペル」でした。
ところが、原発事故によって、それらはすべて壊されてしまいました。東日本壊滅をも政府が想定したほどの過酷な状況の中、「このままでは死んでしまう」という恐怖を感じるのは当然であり、信者さんたちに避難を促し、そののち私も家族と共に避難しました。先行き不明な、あの時の危機感と焦燥感の中、私は「もしかしたら、もう二度とここには戻ってこられないかもしれない」と最悪の事態を予感し、牧師廃業の覚悟をさえ迫られたのです。そして、ついに私は「ホーム」を失いました。
 私は若いころ、大阪の西成区、ホームレスの方々が集う街「あいりん地区」で3年間暮らしたことがあります。ホームレスと呼ばれている人でも実は、きちんとした自宅を所有している方もおられます。なのに何故、路上生活をしているのか、それは、彼らには帰る場所がないからです。彼らが持っていないのは「家」ではなく「家庭」であって、だから「ホームレス」なのです。それゆえ、放浪生活をするしかなくなってしまったのです。そして、それは私たち避難者の姿とも重なるものです。
 避難者の中の多くの人は、仕事を失いました。夢を奪われ、ふるさとを喪失しました。親と子の絆も、築いてきた信頼関係も、生きていたコミュニティも、全てかけがえのないもの、それを失ったのです。それに加えて、嫌がらせや露骨な圧力を受け、する必要がないはずの苦労を強いられ、悩まされ、精神的重圧から鬱、PTSD、睡眠障害などを発症しています。生活の基盤が失われるということは、それほどのことなのだということです。それが自分の身に起きたらと想像してみて頂きたいと思います。裁判官の皆様、もしあなたが突然、裁判官の仕事を奪われてしまったら。あるいは、被告らの代理人をなさっている弁護士の方々、ご自分が急に、理不尽にも弁護士のバッヂを剥奪されたら、と想像してみてください。そのうえで、見ず知らずの土地に何も持たずに移り住んで、新しい仕事を見つけて家族を養わなければならないという状況になってしまったなら、果たして平然としていられるでしょうか。何十年と続けてきた、人生をかけてつちかってきた仕事が、キャリアが、実績が、一瞬にして失われてしまうのです。誰が耐えられますか。挙句の果て、離婚、新生児の先天的異常、発ガンの恐怖、健康が阻害されている現実、子供たちに被爆させてしまったという自責の念、そして罪悪感にさいなまれながら生きて行かなければならなくなった、そんな状況を「被害が無い」などと誰が言えるでしょう。
 「原発事故さえなければ」……それが、すべての避難者の恨み・悔しさです。それさえなければ離婚しなくて済んだ、人生を狂わせられなくて済んだ、親子が離れ離れにならなくても済んだのに何故、こんな苦しい目に合わせられなければならないのか。心が休まる日はありません。
 私たちが失ったもの、共通するのは、それが「帰る場所」だということです。人が生きる上において、なくてはならないもの・それなしでは生きて行けないほど大切なもの、それが「帰る場所」です。平穏な家庭、ふるさと、コミュニティ、自然との共生、友人、仲間、仕事、などなど……それがあるから帰れる、そこで生きて行ける、そこが踏みしめるべき大地、苦しい時にも踏ん張れる土地、人生の土台、それらを何もかも失うことの苦しみは、分かって頂けるはずだと思います。
 「人は地上では旅人である」と聖書は教えています。旅には少しばかりの不便や疲労がつきものです。それでも、家に帰ってきたら「ホッ」とします。そして「やっぱり家が一番だ」としみじみ思うのです。だからこそ旅を終えて帰宅した時に「ああ楽しかった!」と思えるのです。もし、その帰るべき所を失くしたまま日々をあてもなく生きるなら、それは旅ではなく「彷徨っている」と言うのです。そこに「楽しみ」を見出すことはできません。何を食べても、どんな景色を見ても、帰る所なく、さすらう日々は苦痛です。多くの人が死にたくなって、結果、自殺者が絶えない、その事実が「帰る所の無い苦しさ」を物語っています。
 「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」 これも聖書の教えです。自分さえよければいい、などと考える人でない限り、すなわち良心ある人間なら誰もが同意するのではないでしょうか。そうです、他人のことも考えなければなりません。しかし、あくまでも「自分のことだけでなく」です。つまり、大前提として、まず「自分のこと」を確立させなければいけないのです。ならばなおのこと、その「自分のこと(自分の生活)」を破壊された人々を顧みることこそ「良心」の発露というものではないでしょうか。それを良識ある裁判官にご理解いただけないはずはないと私は信じたいと強く思います。
 事故は起きました。そして被害者が存在する、それが事実です。その「被害」は、県境などで不合理に区別されるべきものではありません。どこからの避難者も、等しく「帰るべき自分の居所」を奪われ、人生を破壊されたのです。
 以上が、私たち「原発事故によって避難を強いられた者」に共通した「被害」であることを強調し、全ての被害者が等しく救済されることを願い、強く訴えて、私の最終の弁論を終わります。

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