預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇37:8~22

 『怒ることをやめ』よと、この詩は言う。確かに、信仰者は柔和で温厚で人格者、というイメージがあるだろうから、怒りは相応しくないかもしれない。特にキリスト教は、愛し合いなさい、赦し合いなさい、受け入れ合いなさいと教えるのだから尚更だ。しかし『怒っても罪を犯してはなりません』(エペソ4:26)とあるように、怒りに任せて我を見失うな、と聖書は言うのであって、怒り自体は否定されてはいない。何しろ、神ご自身『日々、怒る神』(詩篇7:11)なのだから。
 この詩が言うのは、あくまでも「悪を行う者が栄える」のに対して怒るな、ということだ。それがたとえ、純粋な怒りであってもだ。何故なら、神がキチンと裁くからである。『彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ』(2節)、『ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる』(10節)とある通りだ。
 しかし、『しばらくの間』とは、どのくらいの期間なのだろう。「しばらく」、それは比較的短い期間であるはずだ。決して、50年、100年という単位ではないだろう。所が、サタンの支配する、この罪の世界は6000年程も続いているではないか。『しばらくの間だけ』のはずが、いつまで続くのか。いつになったら悪者はいなくなるのか。
 9節を見ると、悪者が断ち切られたあと、主を待ち望む者は地を受け継ぐ、とある。信仰者が受け継ぐ地、それは「新天新地・天国」だ。それはこの地が過ぎ去ってから現れる。つまり、聖書の言う『しばらくの間』とは「この地上が存続している間」のことなのだ。すなわち、この世のある限り、悪は繁栄するということだ。そう、そして、悪と不信仰に満ちて、艱難時代(後半の3年半は、大患難時代)が来て、ついに裁きの時が来るのである。しかし、その前に、クリスチャンは携挙される。主が迎えに来て下さって、空中に携え上げられ、まさに救われるのだ。これが慰めである(Ⅰテサロニケ4:16~18参照)。どんなに悪い世の中になっても、たとえ最悪の事態が来ても、主が守ってくれる。だから、今の内に、主への信頼を強めておくことが大切なのである。信仰を糧として、主の御側に行くことを自らの願いとしよう。その人は『豊かな平和に自らを委ねるであろう』(11節・新共同訳)。

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