預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇37:1~7

 悪が栄えるのを見るときに、怒りと共に、もしかしたら妬みも感じる、ということがあるかもしれない。「そうだ、罪の限りを尽くして、死ぬ間際に悔い改めれば……」と。そんな考えを持たないように(それは甘い)ということが言いたい1節である。何故なら、彼らは必ず倒れる時が来る、と2節。だから主に信頼して、真面目に生きて、誠実を養え(新共同訳では、信仰を糧とせよ)と3節。
 ただ4節は、やや疑問だ。主を喜びとすれば心の願いが叶えられる、と言うが、そもそも、悪を行う者はなぜ栄えるのか、という怒りがあって、その人は、主を喜びとするからこそ、悪が栄えないようにと願っているのに、どうして、その心の願いが叶えられないのか、だ。
 現に今、悪は栄えている。世の中ますます悪くなっている。なぜ、悪は栄えるのか。本当は、その答えは分かり切っている。この世に悪と罪、不信仰が満ち溢れて、終わりの時が来る、それが聖書のシナリオである。その、終わりの時まで悪は増殖して行くのだ。
 それでは、4節は一体、どういうことか。前半は、新共同訳では「主に自らを委ねよ」である。5節にも『あなたの道を主にゆだねよ』とある。例えば、ステパノ。「我が魂を御手に委ねます」と自らを主に委ね切った。彼の心は何を願ったか。平穏な余生? 名誉と権力? いや、叶えられたのは、殉教(主のもとに行くこと)だ。パウロも、早く主のもとに行きたい、と言った。主に自らを委ね切った人の願い、それは、主と共にいる事であり、それが叶えられるということなのだ。
 すると、地上の人生に未練を残さず、さっさと死ぬべきということか。いや、地上でやりたいこと、人生設計、それらは悪くない。しかし、その願いを叶える、と聖書は約束してるのではないのである。「いや、何でも叶う」と教えるなら、それが「甘い言葉」だ。あくまでも、主に自らを委ねた人の心の願い(主のもとに行くこと)が叶えられるのである。その人の為の裁きは輝く。勝利の時、喜びと感動の時だ。だから、悪の繁栄を見て、怒りと不平をもって主に訴えるのではなく、主に信頼して祈れ、と7節。神の沈黙を責めるべきではない。私達が、沈黙する(主に信頼する)べきなのである。

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