預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇36

 『罪は悪者の心の中に語りかける』と言うが、罪は生き物ではないし、口も持たない。結局は自分だ。そして、「語りかける」というヘブル語「ネウム」は「お告げ」を意味する。例えば「神のお告げ」のように、罪の性質に従う自分自身が自分の心にお告げをする、ということだ。そして、その「お告げ」に従って罪を行なう(お告げには背けない)というメカニズムになっているという訳である。その場合、自分自身が神になっている、とも言える。それはすなわち、神を神としない、ということだ。そして彼は、自分の罪・過ちを見つけて、それを軽く憎む(罪を過小評価し、自分自身を過大評価する)ことによって、自分に媚びる、欺いている、と聖書は言う。
 それに対して、神を神とする、それが信仰者だ。そのような行動原理を持つ人の人生は、そうでない人と比べて歴然とした差がある。
 ただ、一点。『あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ』とはどういうことか。特に『獣を栄えさせ』だ。例えば、ライオンなら、沢山のウサギを捕れるということか。それならウサギは栄えないではないか。スズメバチなら、大きな巣を作るということか。それは人に危険が及ぶではないか。むしろ害虫類などは栄えさせないで頂きたいと思う。そう、『栄えさせてくださいます』とは繁栄のことではない。直訳は「救ってくださる」だ。イザヤの預言にあるように、天国では狼もライオンも羊も共に草を食む、という訳である。その天国の素晴らしさを語る、それが7~9節である。そして、その恵みを地上においても幾らか味わうことが出来るように『注いでください』と願うのであり、この素晴らしい信仰の道から外れないようにして下さい、と祈るのである(10~11節)。信仰の道から外れるなら『そこでは、不法を行う者は倒れ、押し倒されて立ち上がれません』と12節。
 だから、そうならないように、神を神とせよ(神を恐れよ)ということだ。時には、神に従い切れないこともあるかもしれない。だが、神に従いたい、という思いまで失ってしまってはいけない。
 主の恵みを「注いで下さい」と祈りつつ、それを受け取ることが出来るように、主の道を歩む者となろう。

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