預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇35

 例によって、苦しみの叫びと悲痛な祈りだ。しかし、ダビデには、信仰による勝利の確信がある。だったら何故、神への批判があるのか。『目をさましてください』(つまり「正気に戻って下さい」)とダビデは神に訴える。神のしていること(悪を放置し、沈黙していること)は間違ってる、と批判しているのである。なのに、救われると確信しているのだ。そして、確信している割には神を批判しているのである。
 結果的にダビデは、敵対するサウルを殺さなかった。が、8節で『滅びが彼を襲いますように』と敵を呪っている。実は殺したかった、けど善人ぶっただけなのか。では神がダビデを「忠実なしもべ」と言うのは何故か。サウルにしても、最初は神の忠実なしもべだった。だからこそ王に選ばれたのだが、段々と変質していった。その点ダビデは、罪も犯したが、絶えず砕かれた心(悔い改め)で神の赦しと恵みを味わい続けた。そこが御心に適っていたのである。
 だから9節の「敵が滅びることによって、主にあって喜ぶ」というのは、ダビデの復讐心などではない。神の御心に沿った喜びなのだ。では、誰が滅びれば、神にあって喜べるのか。それは悪魔である(エペソ6:11~12、Ⅰペテロ5:8~9参照)。悪魔は、どんなにあがいても神に勝つことは出来ない。決定的に立場が違う。神は創造主だ。その神が味方なら誰が敵対出来るだろうか、圧倒的勝利だ、とローマ8章は言う。だったら何故、今、悪魔の大暴れは放置されているのか、だ。それが詩篇35の深層心理だと言える。今も人々の目は眩まされ、惑わされている。勿論、最後には神のしもべが勝利し喜ぶ時が来る。それが8~9節だ。だからこその18節の「天国での賛美」なのである。
 神のしもべが義とされることを喜ぶ者は、喜び楽しむようにして下さい、とダビデは神に願う。私達は何を喜ぶべきか。天国をこそ喜び楽しむべきなのだ。そして「ご自分のしもべの『繁栄』(新共同訳では『平和』)を喜ぶ神は大いなるかな、といつも言わせて下さい」とも。願うということは、それが不足しているからに他ならない。
 厳しく辛い現状はあるとしても、天国という勝利の時は必ず来る。その約束がある今、神の恵みを喜び楽しみ、大いなる神を崇めよう。

×

非ログインユーザーとして返信する