預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇34:13~22

 心にあることを口が話す、と主は言われた。例えば、「お世辞を言ってやろう」という思いが心にあるから、口からお世辞が出るのである。心にも無いことは口から出ないのだ。ゆえに、心に何を満たすかが重要である。もし、聖霊に逆らうことを言うなら、それは、神を恐れる思いが心に無いからである。ゆえに、その言葉によって裁かれる(マタイ12:34~37)。だから、神を恐れよ、ということだ。
 それで、神を恐れる者への祝福がいかなるものか、を覚えさせたい、それが15節からであるが、16節には『彼らの記憶を地から消される』とある。それが祝福か。いや、裁きだ。ただし、この場合の「彼ら」とは「悪をなす者」であるが。果たして「覚えさせたい祝福」とは何か。それを知る鍵は18~20節に出て来る『彼』である。それは誰か。
 ヨハネ19:33~36に、十字架上の主イエスのすねは折られなかった、ということが記されている。「このことが起こったのは、詩篇34:20の成就だ」と解き明かされている。ということは、詩篇34:18~20の『彼』は、キリストのことだった、という訳だ。そして同時に「キリストの十字架と復活に与る者」のことでもある。すなわち、神を恐れる(神を愛し、信頼し、従う)者だ。そのような「正しい者」、魂の砕かれた者を救う(18節)と言うのである。
 19節には『正しい者の悩みは多い』とある。全能の神を信じ、祈る、そんな「正しい者」なのに、だ。確かに、祈れば何でも叶う、という訳ではないということも「正しい者」にとっては悩みの種だ。自分の信仰が足らないからか、と自分を責め、「何か罪が残ってるからだ」と他者から責められる。何と「正しい者」の悩みは多いことであるか。しかし『主は、そのすべてから彼を救い出される』と19節は言う。もはや偽りも惑わしも悩みも病も死も無い世界(天国)で新しい体を与えることによってだ。それこそが「神を恐れる者への祝福」なのである。それを覚えさせたい、このアルファベット詩である。
 神を恐れない(という悪)は、その人を破滅に落とす。キリストを信じる「正しい者」を憎む者は、既に神を憎んでいるゆえに罪に定められる。しかし『主はそのしもべのたましいを贖い出される』のだ。

×

非ログインユーザーとして返信する