預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

感涙必至

妻の母が急性白血病で入院した。
当初の見立てでは、余命数日~数週間か、とも。
そこまでではないかも、とのことだが、
治療という段階を一足飛びに緩和ケア病棟に。
勿論、神は全能ではある。
しかし、癒し・奇跡を求めて足掻き苦しむより、緩和ケアで快適に、喜びつつ天国への備えをすることを即断した。それは信仰のゆえだ。
早く行きたい、という願いを誰が責められるだろうか。
全盲になってからの苦労はいかほどだったか想像が及ばない。
見えない辛さに追い打ちをかけるように、「癒されないのは不信仰」というキリスト教会の風潮が病人を責め立てる。
しかし私は言いたい。
もし、癒されないことが敗北であるなら、病と同一線上にある(罪によって人間に入ったものである)「死」も敗北だということになるではないか。
ということは、誰一人として勝利を取ることは出来ないではないか。
何故なら、全ての人は、必ず死ぬからだ。
癒されないことが不信仰・敗北だと言うなら、それは、一人残らず敗北者だということに等しいではないか。


確かに、死は逃れることが出来ない。
向き合うしかない。
しかし、信仰によって、乗り越えることが出来る。
それこそ、天国の希望だ。
それが、勝利だ。


私が九州に来てから、そのようなメッセージをずっと語り続けてきた。
義母は「そのメッセージによって整えられた」と言う。


教会の皆さんには、お見舞いをご遠慮して頂いているが、
「お祈りしに来て」という求めに応えて昨日私は病院に行った。
そこで、私に対して、迷惑をかけたことのお詫びやら、世話になった感謝・お礼など「お別れの言葉」をしんみりと語られた。
思わず、「そんなに感謝されたら泣けてきます」という言葉が口から出た。


天国の確信は揺るがない。
しかし、やっぱり「お別れの言葉」というものは切ない。
涙は、理性とは無縁だ。

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