預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇34:9~12

 「主を恐れる(主を愛し、信頼し、従う)なら、乏しいことがない」と聖書は言う。これは、クリスチャンは金持ちになれる、ということか。いや、これは、若い獅子や若者(イザヤ40:30~31参照)のように力があっても、やがては衰え、死ぬということに対してのクリスチャンの姿を言っているのだ。つまり「外なる体は衰えても内なる人は日々新しくされる」ということである。キリストを信じる信仰は、人間の欲望を満たす為のものではない。罪の赦し・魂の救いの為の信仰だ。
 では「命を喜びとし、幸せを見ようと、日数の多いのを愛する人」を探す、と言うような12節は何か。地上で長生きするとこそ幸せ(それを愛そう)ということか。いや、それは「この世」の考えだ。事実、パウロは「早くこの世を去りたい」と言う。「そのほうがはるかに優れている」(ピリピ1:21~23)と。ただ、地上に残ることによって益になることもあるので地上にとどまっている、という訳だが、パウロの望みは「世を去る(天国に行く)こと」なのだ。だから、地上で長生き出来なかったとしても、それで不幸だという訳ではない。むしろ、長生きしても天国に行けないことのほうがはるかに不幸なのである。
 大事なのは「命を喜びとする」ことである。その為には、神を知ることだ。神抜きでは、それは出来ない。何故なら、神抜きでは、全ては偶然(意味も目的もない)ということになってしまうからだ。生まれた目的も生きる意味も知らないなら、命を喜びとすることは出来ない。人間は、意味のないことに耐えられない。意味のない人生は苦痛だ。神を知り、生まれた目的、生きる意味を知って生きる時にこそ「命を喜びとする」ことが出来るのだ。そのような人生が続くことを愛する、それが「幸せを見る」ことなのである。そのように生きる人は誰か。それは「主を恐れる人」だ。だからダビデは、『主を恐れることを教えよう』と言って、命を喜びとし……と続けたのである。私達も伝えよう。幸せを見たいなら神を知るべきだ、と。そして、生きる意味を知って、生きることを愛するようになりなさい、と子供達に教えよう。その手本となる為にも、私達は、まず自分自身が「主を恐れる」者となろう。「主に信頼して従う日々」を愛する者となろう。

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