預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇34:1~8

 『私の口には、いつも、主への賛美がある』とダビデは言う。が、実際のところ詩篇は、かなりの部分が、ダビデの嘆きと悲痛な祈りの言葉によって占められているではないだろうか。特に、この34篇は表題にある通り、極限まで追い詰められた時(Ⅰサムエル21:10~15参照)に歌ったものだが、彼は『非常に恐れ』て、狂った振りまでして、屈辱の内に追い払われて、無様に去って行くのだ。どこにも賛美の言葉など見つからない。それでも『私はあらゆる時に主をほめたたえる』とは、どういうことなのか。
 それは、『私のたましいは主を誇る』と詩篇34:2にある通りだ。つまり、たとえ心の中は、嘆きと悲しみ、悔しさ、恥ずかしさ、屈辱でいっぱいであろうとも、それでも、そんな時でも、魂は主を誇る、と言うのである。ダビデの魂には、主は良いお方だと刻み込まれていたからだ。それゆえ、追い払われて、洞穴に避難した後、ダビデはモアブの王の所に行き、「神が私にどんなことをされるか分かるまで、どうか……」と、両親をかくまってくれるようにと頼んでいる。神が何かなさる、何か良いことをして下さる、と期待しているのである。気が狂った振りをしなければならないほどに追い詰められても、なお、神の素晴らしさを知っているがゆえに『私のたましいは主を誇る(主を崇め、祈り、賛美する)』、それが『あらゆる時に主をほめたたえる』ということなのだ。
 そして、『貧しい者はそれを聞いて喜ぶ』と続く。新約の例に倣って「心の貧しい者」だと理解しよう。どんな時でも「私の魂は主を誇る」と主をほめたたえる人がいる。そう、主は素晴らしい、ということ、それを聞く、それが、魂の(私には神が、救いが、必要だ、という)呻きに気付いている人には喜びなのである。
 私達も、主の素晴らしさを聞いて喜ぶ者となろう。何が素晴らしいか。それは、天国(救い)こそ「神の素晴らしさ」なのだ。それを『味わい、見つめよ』とダビデは言う。そして、幸いなことよ、「主こそ、我が避けどころ」とする人は、と。 私達は、天国という避けどころを与えて下さった「主の素晴らしさ」を魂に刻もう。

×

非ログインユーザーとして返信する