預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇33:20~22

 前回の「神の慈愛(救いの完成)を待ち望もう」の続きである。それを待ち望むのは、私達の「心」ではなく「魂」だと言うのだが、どういうことだろう。心では「宗教なんか要らない」と思う人もいるかもしれない。頭では「天国なんか無い」とも考えるかもしれない。しかし、魂は救いを求める、それが人間だということだ。
 問題は、その魂の渇望(うめき)を感じ取れるか、ということだ。例えば、肝臓が「沈黙の臓器」と呼ばれるように、魂も、ダメージを受けていることに気付かない、ということが有り得るのである。事実、私達もかつては、そのように生きていた。幸いなことに、神の憐みによって、魂の救いへと導かれたが。
 とにかく、「救いが必要だ」と、魂が感じないとしたら、それは極めて危険だ。例えば、神経がマヒすると、痛みも何も感じない。気付かない内に出血していた、ということにもなる。同じように、魂がマヒしてしまうなら、いつの間にか滅びに……ともなりかねない。現に、教会から離れてしまう人が少なからずおられる。
 だから私達は、救いが必要だということを魂に刻み込むべきだ。パウロが「心の中で(原文は「自分自身の中で」)うめきながら体の贖われること(救いの完成)を待ち望んでいる」とローマ8:23で言うように。何しろ「天国という希望こそが救いだ」ともパウロは言うのであるから。言わば、天国の望みを持っていない(死んだらおしまい、と考えている)なら救われていない、ということでもある。たとえ、洗礼を受けても、礼拝に出席していても、だ。せっかく、キリストを信じたのに、天国の確信が無い(ゆえに、天国に行けない)としたら、それは余りにも惜しい。もったいない。
 救われるということ、それは、死んでおしまいではないということ、いや、そこから本当の命が始まるということなのだ。キリストの十字架~復活によって、それは約束された。もはや死は「最大の悲劇」ではなくなるのだ。この信仰を持たずして何のクリスチャンだろう。私達は、天国の希望を魂に刻み、救いの完成を待ちわび(喜び楽しみにし)つつ、今の時(地上での旅路)を期待して過ごそう。

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