預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇37:30~34

 正しい者は知恵を語る、と詩篇は更に言う。知恵と言えば、箴言だ(知恵についての教えが99回も出て来る)が、その中でも注目すべきは『主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである』(箴 9:10)だ。真の神がおられると知る(そして従う)こと、それが「知恵の初め」だと言うのである。口語訳では「知恵のもと」だ。そこから知恵が出て来るということである。すると、神を知らない人には知恵が無いということか。いや、日本の99%の人が神を知らないのにもかかわらず、この国は英知に満ちている。ただ、神抜きの知恵は、芯の無い(絶対的ルールの無い)知恵だ。だから悪知恵が働く。つまり、「知恵のもと」とは、神についての知恵(神を理解する知恵)であって、その初めが、神を知り従うことなのだ。そうすれば、『彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう』(箴9:9)というわけなのである。ちなみに、「語る」という言葉は「口ずさむ」(詩篇1:2)と同じ単語である。それは「心の中に神の教えがある」ことの現れだ。心にあることを口が話すのであるから。その人の歩みはよろけない、と詩篇37:31に続く。
 この「よろけない」は、原語では「ズレない」である。歩みがズレないということは、目標をしっかりと捉えている、ピッタリ方向が合っている、必ずゴールする、ということだ。では、人の歩み(人生)は、どこに向かうべきか。それを知らずして、ズレるも何もない。人の歩みの向かう方向、それは天国である。その目標からズレるなら、その人生は、よろける。そして敵であるサタンは、そうなるように仕向ける。ズレさせるのだ。間違った教えに、気付かない内に、少しだけ。そうすれば天国を見失わせることが出来るからだ。しかし、神の教えを心に宿し思い巡らして(口ずさんで)いる人の歩みはズレない。知恵によって、神の言葉が指し示す方向を良く理解しているからだ。
 だから主(にお会い出来る日)を待ち望め、と34節に続く。すなわち、天国に入る日だ。そして『その道を守れ』と言うのである。天国に入るための道を1ミリでもズレるべきではない。主にお会い出来るように、その道を日々、守って歩もう。

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