預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇37:35~40

 『平和の人には子孫ができる』と言うが、ある人はこの言葉に違和感を覚え、ある人(例えば、不妊で悩む人)は躓くかもしれない。これは翻訳の問題である。『子孫ができる』は直訳は『未来がある』であって、新共同訳では、ちゃんとそう訳されているのに、不思議だ。
 さて、この37篇は「この世にあって悪は栄える」ということを言う。それは『おい茂る野生の木のようにはびこっていた』と。うまい表現である。小さなハサミやスコップのようなちっぽけな個人の正義では歯が立たない。この世の悪はそれ程に根深い。『だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない』と続く。これはいつのことを言っているのか。この世が終わった後のことだ。神の最後の裁きの時が来たら、悪は存在し得なくなるのだから。ゆえに新共同訳では『時がたてば、彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできないであろう』と訳されている。その時は、まだ来ていない。ゆえに今、悪は栄える。毒麦の伸びる時期なのだ。果たして、悪が過ぎ去る日はいつ来るのか。悪が栄えるのは『しばらくの間だけ』とはいえ、すでに約6000年ではないか。それを「しばらくの間」と言うだろうか。いや、過ぎてみれば「あ」という間なのかもしれない。人生のように。そう、だから今の内に『全き人に目を留め、直ぐな人を見よ』とこの詩は言う。ボヤボヤしている暇はない。短い人生の中で信仰を確立させなければならないのだから、時間を無駄には出来ない、と。
 主に信頼し、神の家族に善を行い、信仰を糧とする人、心に神の教えが在り、それを語る人、神との平和を持っている人、その人には「未来がある」。地(新天新地・天国)を受け継ぐからだ。必然的に、悪者には未来がない。地獄、それは永遠の苦しみの世界だ。
 だから主は言われた。片手片足を失っても天国に入るほうがいい、と。その為なら、全てを投げ出しても構わない、それが天国だと。そのような信仰を確立させるために、今の時を大切にしよう。「信仰を建て上げるのに有益なこと」に目を留めよう。「そうでないこと」には心を留めないようにしよう。「そうでないこと」に直面したら、主に身を避けよう。主こそ我らが盾、隠れ場であるから。

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