預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇38

 自らの過ち、罪の経験、その苦しさを忘れないように(記念の為に)、ダビデはこの詩を、読者の為にではなく、自身の為に書いた。その苦しみの表現が全篇に渡って切々と記されている。それでいて、表題には「賛歌」とある。果たして、この詩から私達は何を学ぶべきか。
 唯一、前向きな信仰が見られるのが13~15節だ。「自分を非難する声が聞こえても何も言わない。それは、神を待ち望んでいるからだ。神が答えてくれる」と。つまり「神に全てを委ねている」ということだ。が、それは「非難を受けるのも神に任せた。神が責めを受けてくれる」ということではない。神に委ねるべき部分、それは、結果がどうなるか、という部分をこそ神に委ねるべきなのであり、自分のなすべき責任さえも委ねてしまってはいけない。例えば、試験。勉強は自分のすることであって、神に任せることではない。が、全力で試験を受けた後、その結果がどうなるか、あがいてもどうにもならない。だから、そこを神に委ねるのである。
 そのようにダビデも、自分の罪の結果を神に委ねたから、非難の声を聞いても反論しないし、言い逃れもしない、神の罰も受ける、ということだ。そういう意味で「全てを委ねている」のである。そして彼は祈った。私が弱っている時(である今こそ)、助けて下さい、と。
 神は、この詩を用いて、私達に警告を与えるのだろう。気を付けろ、ダビデのような経験しないほうがいいぞ、と。例えば私達は、人の証しを聞いて感動する。そのように、この詩を読んで、言わば「仮想体験」をし、自分への戒めとして(二度と繰り返さないように、と)覚えておくべきなのだ。もし仮に、実体験をしてしまったら、ダビデと同じように神を待ち望み、神に委ね、全てを神にお任せするしかない。
 人生の結末、最後の裁きの時、どんな結果が出るのか、それは神に委ねるしかない。しかし、その時が来るまでは、私達は最善を尽くす必要がある。天国を見失うという最悪の結果になることのないように、今、私達にはするべきことがある。全力で、主への信頼を育むことだ。主に信頼する者を主は助けて下さる。ダビデも、そう思うからこそ「早く、助けて」と訴えた。そう、神は助けて下さる。賛歌である。

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