預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇39

 舌は悪、死の毒に満ちている、不義の世界だ、とヤコブ書では厳しく指摘されている。ダビデも『舌で罪を犯さないために』と沈黙した。ただ問題は、『よいことにさえ、黙っていた』(別の翻訳では「良いことさえも何も言わなかった」)というところだ。それで苦しくなった、というのである。
 たまりかねて、ダビデは口を開いた、それが4~13節である。ここに「語るべき『良いこと』」がある。9節は「これ(4~13節)以外のことは言わない」ということであろう。
 まずは、人間(人生)は儚いということ。それを知る必要がある、と4~6節で言う。だからこそ、神(に会う、すなわち天国に入ること)を望む、と7節。その為には、罪の赦しを得なければならないということを8節で。何故なら、神に責められて(罪を探られて)耐え得る人はいない(全ての人には罪がある)からだと10~11節。ゆえに、憐れみを求めて祈るのが12~13節である。
 ダビデは、それを語らなかった。「語らない」ということは、単に黙っているということ以上に、それを「自分の告白」としていない(それを認めていない、あるいは、それを自分の生き方としていない)ということであり、それはすなわち、死んだらおしまい、という虚しい人生だということである。苦しくなるのは当然だ。
 結局ダビデは、その「良いこと」(地上では旅人であり、天国を望んでいること)を自分の告白とし、神の憐みを祈り求めた。それが「神の子」だということであり、それを自分の告白(自分の生き方)としようということだ。
 人生は短い。儚さ、虚しさを感じることもあるかもしれない。しかし、だからこそ、天国に希望を持つべきなのだ。そこに希望がある。神の憐みを喜ぼう。そう、神の憐みのゆえに救いの道が与えられた。キリストを信じるなら、罪の赦し・天国が与えられるのだ。この大いなる恵みを黙っているわけにはいかない。『私の望み、それはあなたです』と告白しよう。それを、語るべき(そういう生き方をするべき)である。そのような告白をする信仰者となって、人にも語って行こう。

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