預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

貧しさと、正しさと、幼さと(マタイ19:13~26)

19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」



 ある一人の金持ちの青年の質問に対して、主は『持物を売り払って貧しい人に施せ』と言われた。そうでないと命には入れない、と。それを聞いた青年は悲しんで去って行った。それで主は言われた。『金持ちが天国に入るのは難しい』と。
 では、私達も貧しくなるべきだろうか貧しいことと豊かなこと、どちらが神の祝福なのか


 当時の人々は(現代の人々も)、金持ちは神に祝福された人だと考えた。それで、その金持ちが救われないなら一体誰が? と非常に驚いたのである。


 そもそも主は『子供のようにならなければ天国には入れない』と、神に委ね切ることを教えられたのに、この青年には行ないを要求したのは何故か
 それは彼が「良いことをしなければ天国には入れない」と考えていたからだ。つまり行ないによる救い・律法主義」を追及していたのである。その方式を採るなら、戒めを完全に守るしかない。そして彼は、自分は完全に守っていると思っていた。だから主は言われたのだ。『もし完全になりたいのなら、持物を……』と。


 私達は、自分の行ないの正しさによって救われようなどとは思っていない。それどころか、私達は罪人であり、神の憐れみにすがって十字架の恵みによって救いを受け取る者である。だから、持物を売り払うことは、私達に要求されているのではないのである。
 あくまでも「もし、完全になりたいなら(行ないの正しさによって救われようと思うなら)ここまでやるしかない」ということなのであり、律法主義を否定する為に語られているのである
 それは、マタイ5:20~48と同じだ。やはり主の教えは、信仰によって(神の恵みによって)子供のように委ねて救われよ、ということである。
 神の祝福(承認を得る)とは、「貧しくあること」でもないし、必ずしも「富むこと」というわけでもないのだ。


 では「神の祝福」とは何か。弟子達も、そんな気持ちで『誰が救われるのですか』と尋ねた。主が言われたのは、それ完全になること、行ないによって救われることは人には出来ない。しかし、不完全な者を救うことが神には出来る、ということだ。
 その神に信頼して委ねる者の為の国、それが神の国だと主は言われた。
私達は、今一度、子供のように主の御言葉に信頼し委ねる者となろう。

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