預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何でも与えられるわけがない(マタイ7:6~11)

7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。



 求めなさい、そうすれば与えられます、という有名な御言葉であるが、甚だしく誤解されている代表的な御言葉でもある。


 ここで主は、確かに、『だれであれ』とは言っているが、『なんでも』とは言っていない。つまり、「求めれば与えられる」というのは、「祈れば何でも叶う」ということではなく、何か特定のモノについて「誰でも与えられる」ということなのだ。それを読み解くカギは、6節だ。
 聖なるもの(神に属するもの)、真珠(神の教え)を犬や豚(無法者)に与えるな、とはどういうことか。
 例えば、『右の頬を打たれたら左も…』という教え……それを真正直に実行しようとしたら、「長男を殺されたら次男も殺してもらえ」となってしまうかもしれない。それは明らかに行き過ぎなのであり、そんなことができる人は普通はいないだろう。
 もしあり得るとしたら、「心からの愛の鞭を受けたら、もっと叱ってもらえ」ということぐらいではないだろうか。


 そこで、「真珠を豚に投げるな」と。すなわち、『右の頬を打たれたら左も…』という教えを無法者に対しても適用させるべきではない、と教えられているのだ。そんなことをしても、踏みにじられ、引き裂かれるだけだ、と主は言われているのである。


 『右の頬を打たれたら左も…』これが適用できるのは、自分のことを心の底から愛し、心配し、諭してくれる、そんな人に対してである。


 だから、あのパウロも、伝道の中で、口汚く罵り暴言を吐く相手に対しては『あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ』と言って、突き放した。


 勿論、福音は、全ての人に(どんな極悪人にも)与えられるべきだ。しかし、愛は、やみくもに与えればいいのではない。相手を見極めて毅然とした態度を取ることも必要なのである。ゆえに『蛇のように聡く、鳩のように素直であれ』と主は言われた。また『正し過ぎてはならない、悪過ぎてもいけない』と伝道者の書に教えられている。


 そのバランス感覚、判断力(どんな場合に、どの御言葉を適用させるべきなのか)……難しいが大事なことである。だから、それを『求めなさい』と主は言われたのだ。そうすれば、(ソロモンがそうだったように)与えられる、と。そして、父が求める者に良い物を下さらないことがありましょうか、と続くのだが、その「良い物」とは、ルカの福音書を見れば分かるように、「聖霊」である。


 そう、求めれば必ず与えられるもの、それは、聖霊だ。
 聖霊による悟りを求めよう。

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