預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

子供が、大人!(マタイ18:1~3)

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。



 天国に入る為の条件は、ただ一つ、救い主イエスを信じること、それだけである、はず、なのに、主は、『子どものようにならなければ、誰も天の御国には入れない』と言われた。条件は、二つに増えたのだろうか?


 エペソ4章には、キリストご自身が教会を建てられた目的は「私達が完全な大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長する為だ」とあるし、Ⅰコリント14:20にも、『物の考え方において子供であってはいけません。おとなになりなさい』とある。


 さて、どうしたものか。私達は、子供になるべきなのか、大人になるべきなのか……というような、単純な、子供っぽい考え方をしてはいけない、ということである。
 それを教える為に、主イエスも言われた。『豚に真珠を投げるな』と。前の投稿にもあるように、「山上の垂訓」という無抵抗・博愛主義的な、真珠のような教えを、豚という言葉で表される「無法者」にも適用させるべきではないのだ。そのような、正し過ぎず、愚か過ぎない、柔軟な考え方が出来る、それが聖霊によって成長させられた大人のクリスチャンだ。


 では、『悔い改めて子供のようにならなければ、天国に入れない』とはどういうことか。まず、『悔い改めて』とは、方向転換(メタノイア)である。大人から子供へと、生き方を方向転換するのだ。例えば、小さな子供は、自分で何の計画も立てはしない。完全に親に委ね切って、何も心配せず、親の愛と守りの中で生きている。同じように、もはや自分の力や努力で頑張ろうとするのではなく、父なる神様に信頼して、委ねて、安心して生きる……そういう生き方へと方向転換するように、ということだ。そして、それこそが、クリスチャンになる(主イエスを信じる)ということなのであって、そうでなければ、誰も天国には入れない、というのは、正しいのである。


 結局、天国に入る条件は、やはり一つだけだ。主イエスを信じて生きる、それだけである。それが、「子供のように生きる」ということなのだ。そして、それが、「考え方において大人になる」ということなのである
 私達は、これからも更に神様に信頼しきって生きる者となろう。

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