この詩は、表面的には、地上の王への賛辞であると見える。が、実は、主の主・王の王キリストの事を歌っている「メシア詩篇」である。
油注がれたキリストである御子は信じる者が救われる為にと身代わりに十字架で死に、葬られた。その葬りの時、キリストの体は没薬とアロエと香料(肉桂も香料)に包まれた。勿論、香料は永遠には香らない。しかし、キリストの体はその香りを放つという事は、キリストは甦って今も生きているという事を表すと考えられる。そう、だからこそ、信じる者にも復活と永遠の命の希望が与えられるのだ。それゆえに褒め称えられるお方、それがキリストである。その賛美の言葉が心の中に沸き立ち、流れ出ると1節で言う通りに歌われている、それが2~8節だ。とにかく、キリストは素晴らしいお方であり、単なる「偉人」ではなく、全能の神なのである。そしてキリスト教は、人が作った宗教などではなく、宇宙の真理、命そのもの、天国の現れ、闇を照らす光、人を生かす神の力、全ての答えなのである。だから娘(神の民)よ、心して聞け、と詩人は言う。あなたの民、父の家を忘れよ(家・国を出て、王に嫁げ。完全にキリストの花嫁となれ)と。『そうすれば王は、あなたの美を慕おう』とある通り、キリストの花嫁となればこそ、キリストは「私の目にあなたは高価で尊い」と、その美しさを慕って下さり、恵みと慈しみを与えて下さるのだ。
王の花嫁は王妃としての生活をするようになる。例えば、民間から天皇家に嫁いだ人が皇族となるようにだ。その生活様式の変化は大きな戸惑いを生む場合が、この世においては、ある。しかし、キリストの花嫁にとって神の国の生活は、喜び、平安、感謝だ。神を愛する者にとって神の命令は重荷とはならない。主のくびきは負いやすく心地良いのだ。そして、本当のキリストの花嫁は、真理を知り、自由になるのである。だから、中途半端にではなく、完全にキリストの花嫁となれ、キリストと共に生きよ、という事だ。もはや、かつての(罪と死の中に生きていた頃の)ように、不安と恐れの中をあくせくしながら生きるのではない。私達は、主が共にいる喜びと平安の中をキリストの素晴らしさを味わう、そのような生き方をする者となろう。
本のタイトルは、
『苦しくならない聖書の本』 ~福音の真理・命を守りたくて~ (著者:金本友孝)
玄武書房
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イスラエルは神の力に頼って様々な戦いに勝利した。それゆえに『御名をとこしえにほめたたえます』と8節で結ばれた。『それなのに』神に見捨てられた、と9節から16節は言うが、それはイスラエルが神により頼まず、他の神(偶像)を頼みとしたからである。つまり、イスラエルが神に見捨てられたという事実(殆どの人が約束の地に入れず荒野で死んだことや、バビロン捕囚、エルサレム崩壊等)は私達への戒めであり、今ももし自分の力で救われようとする(神以外のものに頼る、古い皮袋=律法主義に戻る)なら裁かれるということだ。
さて、イスラエルは、自分達は神を忘れてなどいない、と弁解するが、それは通用しなかった。たとえ、神を忘れはしていない(信じてる)としても、神に頼らなかったのであり、それで良しとはされないということなのだ。
そこで23節から救いを求める祈りとなるが、その中で「神よ、何故、私達を見捨てるのですか」と訴えられている。何故……、それはイスラエルが神により頼まなかったからだったはずだ。そもそも、神に頼らずして(自分の力で)約束の地に入ることは出来ない、それがこの詩を通して受け取るべき神からの中心的なメッセージなのだ。ところが人間は、すぐに自分の力に頼ろうとする。律法主義(古い皮袋)に戻ろうとする。初代教会にも、ユダヤ化(割礼、律法順守)を主張する人達がいたが、使徒達は、それは良くないと決議した(使徒15~16章)。そしてパウロは「神の恵みを無駄にしないで」と懇願して言う。せっかく、十字架によって「行いによらず信仰によって救われる」道が開かれたのに、その上で行い(律法)に頼るなら、それは神の恵みを無駄にすることだ。なのに、今も、キリスト教をユダヤ教化させようとする人がいる。同じ過ちが何度も繰り返される。だから、そんな考え方(神以外のもの、行い、律法に頼ろうとする心)から救い出して頂かなければならないのである。26節にある通り「神の恵みの為に」だ。神の恵みを無駄にしてしまわない為に、私達は、ただ神を忘れないだけでなく、神に頼る者であり続けたい。そのようにして、人生の勝利である約束の地(天国)へと神に導かれて入る者となろう。
一読した限り、敵と戦って勝利出来たのは神のおかげだ、というようなことが書かれていると思われる。確かにイスラエルは数々の戦いを神の力によって勝利した。だから? 聖書は私達にも「勇ましく戦え」と勧めているのだろうか。
確かに、人生は戦いだ。しかし、それは決して隣人との戦いではないし、隣国との戦いでもない。罪と死、この世の闇の力との戦いであり、神に従うか肉に従うか、天国か地獄かの戦いである。その戦いに勝つには神に頼れということ(すなわち、福音による救い)のモデル、それが旧約聖書なのである。特に2~3節は、イスラエルが約束の地を手に入れた時のことであり、それは神ご自身の御業であるということが語られている。決して、人が自分の力で手に入れた地ではないということだ。そして、その約束の地は、この世ではカナンという土地であるが、それは飽くまでもモデルであって、本当の約束の地は「天の都」である。それはまさに神御自身の御業(御計画)であり、人が自分の力(行いの正しさ、律法主義)で手に入れられるようなものではない。恵みのゆえに、福音によって救われるのだ。そして、それを信じることの出来るようにと聖霊による促しさえも与えて下さる。全て、神の恵みである。
なぜ、神は、そこまで恵みを与えて下さるのか。それは、神が人を愛したからだと3節は言う。ただし、誤解してはならない。この『愛した』は、ヘブル語の「ラーツァー」であり、喜んだ、受け入れた、という意味の言葉だ。つまり、神を信じ従う者を神は喜んで受け入れた。だから彼らは天国に入れるということなのである。
ヨハネ3:16の、神が世を「愛した」は、不定過去形(アオリスト)、すなわち、神は「過去に一度だけ全ての人に愛を示した」ということであり、それこそが十字架である。その十字架を信じ受け入れるなら、なお更に神の愛に包まれる。が、拒むなら、裁かれる。
とにかく、人生は戦いであり、勝利は天国である。その勝利を得るためには、自分の力(人間的なやり方)に頼るのではなく、神に頼れということだ。そのようにして神の愛に包まれて、信仰の道を歩もう。
かねてからお知らせしている新しい本の刊行が10月1日と決まりました。
まもなく、アマゾンのページが出る予定ですので、その際、本のタイトルと表紙、そしてアマゾンのページのリンクを貼ります。
過去に2冊、キリスト教出版社の「I社」から私の本が出版されています。それは2冊とも「自叙伝」(前編と後編みたいな感じ)でした。残念ながら後編『明日は来るのか』は、悲しいくらいに売れませんでした(涙)。でも一冊目の『明日はどっちだ』は、もはや版元在庫切れ(絶版)で手に入りません(それもまた残念なことではありますが)。あるネットショップでは、貴重な新品が1万2千円程の値が付けられていました。ブ〇ク〇フなら100円(税別)くらいで中古が買えるのに。
さて今度の本は、さすがに「自叙伝」ではありません。今度は、本格的な、聖書の解説本です。それも、キリスト教出版社ではなく、一般の出版社から出るんです! これは、例えばミュージシャンで言えば、インディーズを卒業して、メジャーデビューするようなものだと言えるでしょう。ここに至るまでは紆余曲折(一言で言えば)長く苦しい道のりでしたけど、報われました。けど、問題はどれだけ売れるかです。
このブログの読者の皆様には、是非ともご購入をアマゾン等でお願いします。街角の書店には置いていません。オンデマンド(受注生産の)出版だからです。そのメリットは、絶版で手に入らなくなるということがない(いつでも欲しい時に買える)というところです。同時に、在庫を抱えるリスクもないという、今後の出版業界の常識となると言われる方式です。
よろしくお願いいたします。