預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇45:1~11

 この詩は、表面的には、地上の王への賛辞であると見える。が、実は、主の主・王の王キリストの事を歌っている「メシア詩篇」である。
 油注がれたキリストである御子は信じる者が救われる為にと身代わりに十字架で死に、葬られた。その葬りの時、キリストの体は没薬とアロエと香料(肉桂も香料)に包まれた。勿論、香料は永遠には香らない。しかし、キリストの体はその香りを放つという事は、キリストは甦って今も生きているという事を表すと考えられる。そう、だからこそ、信じる者にも復活と永遠の命の希望が与えられるのだ。それゆえに褒め称えられるお方、それがキリストである。その賛美の言葉が心の中に沸き立ち、流れ出ると1節で言う通りに歌われている、それが2~8節だ。とにかく、キリストは素晴らしいお方であり、単なる「偉人」ではなく、全能の神なのである。そしてキリスト教は、人が作った宗教などではなく、宇宙の真理、命そのもの、天国の現れ、闇を照らす光、人を生かす神の力、全ての答えなのである。だから娘(神の民)よ、心して聞け、と詩人は言う。あなたの民、父の家を忘れよ(家・国を出て、王に嫁げ。完全にキリストの花嫁となれ)と。『そうすれば王は、あなたの美を慕おう』とある通り、キリストの花嫁となればこそ、キリストは「私の目にあなたは高価で尊い」と、その美しさを慕って下さり、恵みと慈しみを与えて下さるのだ。
 王の花嫁は王妃としての生活をするようになる。例えば、民間から天皇家に嫁いだ人が皇族となるようにだ。その生活様式の変化は大きな戸惑いを生む場合が、この世においては、ある。しかし、キリストの花嫁にとって神の国の生活は、喜び、平安、感謝だ。神を愛する者にとって神の命令は重荷とはならない。主のくびきは負いやすく心地良いのだ。そして、本当のキリストの花嫁は、真理を知り、自由になるのである。だから、中途半端にではなく、完全にキリストの花嫁となれ、キリストと共に生きよ、という事だ。もはや、かつての(罪と死の中に生きていた頃の)ように、不安と恐れの中をあくせくしながら生きるのではない。私達は、主が共にいる喜びと平安の中をキリストの素晴らしさを味わう、そのような生き方をする者となろう。

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