預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇2

 詩篇の預言書的側面を示すのが、この第二篇(メシア詩篇と呼ばれているものの一つ)である。1~2節にある通り、指導者達は手を組んでキリストに逆らった。指導者に限らず「国民」もである。特に、1節の「つぶやく」は、1:2の「口ずさむ」と同じ単語であって、人々は単につぶやいたのではなく、いつも神に逆らうことを思い巡らし、考え、実行した、ということだ。何故、そこまで? と嘆きたくもなろう、というものだ。
 ただ実際は、イスラエルの宗教指導者達は、神に逆らいたいと思っていたわけではない。むしろ、律法を厳しく守り、罪人を遠ざけ、安息日を破るイエスを迫害した。そうすることが神に仕えることだと考えていたのである。所が実は、それが神に逆らうことだったのだ。その典型がサウロ(のちのパウロ)だ。神に逆らうつもりなどなかった。ましてや、神を信じない人にとっては、神に従うつもりも、逆らうつもりも無い。ただ、神を認めない(神を知らない)から平気で偶像を拝み、普通に占いに興じるだけなのだ。ということは、普通に生きようと考えれば考えるほど、実はそれは、神に逆らうことをいつも考え実行している、ということになるのである。神は、その者共を退ける。
 しかし、メシア(キリスト)を立てた、と6節に続く。神を認めない人々を『恐れおののかせる』為、つまり「キリストを見て神を知れ」ということだ。主も言われた。私を見た者は神を見たのだ、と。
 さて、7~9節は、誰が誰に語っているかが問題だ。特に7節後半からは『』で括られている。そこでの『わたし』である父なる神が、御子イエスである「わたし」に語っているのだ(使徒13:33参照)。つまり、キリストこそ全地の主(全ては主のもの)だということである。それゆえ、王達よ悟れ、キリストに従え、というのである。それが「幸いな者」だからだ。8節は決して、人間に対して『全世界が与えられるように求めよ』と言っているのではない。『たとえ全世界を手に入れても真の命を損じたら何の得が?』と主は言われた。求めるべきは永遠の命・天国だ。ゆえに『神を第一にせよ』なのである。私達は、主の教えを喜び、忠実に従う「幸いな者」となろう。

詩篇1

 詩篇には「嘆きの祈り」が満ちている。それでも「讃美歌集」である、というのは何故か。それは、主は必ず助けて下さる、という信仰のゆえに、苦しみの中でも「主こそ神である」と告白する(それが賛美だ)からである。もし、その信仰が無ければ、残るのは嘆きだけだ。そこには救いが無い。希望の光が無い。だから、そんな道に歩むな、と教えるのが、この詩篇1篇(詩篇全体の要約)なのである。
 さて、この詩は、まず「幸いだ」という宣言から始まる。「悪者」=意図的に悪を行う(神に背くのみならず、法にも背く)者、「罪人」=神を知らずに的外れな生き方をする者、「あざける者」=高ぶった横柄な者(箴言21:24)…霊的なことを軽んじる者、それらの生き方に同調しない者が幸いだというのである。その点、クリスチャンは、キリストを信じて義と認められたのだから罪人ではない。勿論、悪者になどなるべきではない。しかし、霊的なこと(天国、永遠の命など)を軽んじるということはあるのではないか。すなわち、地上での繁栄を最重要視するような信仰だ。それは「あざける者」に同調していると言える。私達は、天に名が書き記されていることを喜ぶべきである。
 さて、それらの生き方をしない人は、主の教えを喜び、口ずさむ(思い巡らす)生き方をする、と詩篇は教える。さらに言えば、思い巡らすだけでとどまるのではなく、その御言葉を実行するべきだ(ヤコブ1:22)。その人は、水路の側に植えられた常緑樹のように、真っすぐに伸びる。それとは違って、悪者は神の裁きの前に、もみ殻のように吹き飛ばされる。罪人は、天国に(教会にも)招かれてはいるが、罪人である限りは、天国の宴会(正しい者の集い)に入れない。
 締めくくりに『主は正しい者の道を知っている』と詩篇は言う。道とは、その「生き方」だ。正しい者がどのような人生を生きたかを、主はご存知で、報いて下さるということだ。たとえ悪者が、この世で営利と快楽を貪ろうとも、それ故に正しい者が苦しめられようとも、そのままでは終わらない。裁きがある。だから私達は主に信頼して、正しい道を歩む者となろう。その人の人生は、逆風でも、日照りでも、水路の側に植わった常緑樹のように真っすぐに伸びる。