預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇1

 詩篇には「嘆きの祈り」が満ちている。それでも「讃美歌集」である、というのは何故か。それは、主は必ず助けて下さる、という信仰のゆえに、苦しみの中でも「主こそ神である」と告白する(それが賛美だ)からである。もし、その信仰が無ければ、残るのは嘆きだけだ。そこには救いが無い。希望の光が無い。だから、そんな道に歩むな、と教えるのが、この詩篇1篇(詩篇全体の要約)なのである。
 さて、この詩は、まず「幸いだ」という宣言から始まる。「悪者」=意図的に悪を行う(神に背くのみならず、法にも背く)者、「罪人」=神を知らずに的外れな生き方をする者、「あざける者」=高ぶった横柄な者(箴言21:24)…霊的なことを軽んじる者、それらの生き方に同調しない者が幸いだというのである。その点、クリスチャンは、キリストを信じて義と認められたのだから罪人ではない。勿論、悪者になどなるべきではない。しかし、霊的なこと(天国、永遠の命など)を軽んじるということはあるのではないか。すなわち、地上での繁栄を最重要視するような信仰だ。それは「あざける者」に同調していると言える。私達は、天に名が書き記されていることを喜ぶべきである。
 さて、それらの生き方をしない人は、主の教えを喜び、口ずさむ(思い巡らす)生き方をする、と詩篇は教える。さらに言えば、思い巡らすだけでとどまるのではなく、その御言葉を実行するべきだ(ヤコブ1:22)。その人は、水路の側に植えられた常緑樹のように、真っすぐに伸びる。それとは違って、悪者は神の裁きの前に、もみ殻のように吹き飛ばされる。罪人は、天国に(教会にも)招かれてはいるが、罪人である限りは、天国の宴会(正しい者の集い)に入れない。
 締めくくりに『主は正しい者の道を知っている』と詩篇は言う。道とは、その「生き方」だ。正しい者がどのような人生を生きたかを、主はご存知で、報いて下さるということだ。たとえ悪者が、この世で営利と快楽を貪ろうとも、それ故に正しい者が苦しめられようとも、そのままでは終わらない。裁きがある。だから私達は主に信頼して、正しい道を歩む者となろう。その人の人生は、逆風でも、日照りでも、水路の側に植わった常緑樹のように真っすぐに伸びる。

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