預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

暑いけど

運動不足こそ諸悪の根源と悟って軽い運動を始めてから約3週間、体調がよくなってきた気がする。
すると現金なもので、運動が楽しくなってきた。
問題は、いつまで続くか。
出来れば、このまま続けていきたい。
還暦まであと1年8か月。元気なおっさんを目指す。

詩篇10

 悪が栄える陰で『不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる』。そのような現実を見ることがある。それゆえに悪者は『神は忘れている。顔を隠している』と、神を侮る。
 面白いのは、彼らは、神の存在を否定してはいない、ということだ。ただ、侮っているのである。『私は揺るぐことがなく、代々にわたって、災いにあわない』、神の裁きはない、と。
 しかし、聖書は言う。『神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります』(ガラテヤ6:7)と。それでも悪者は、神は『決して見はしないのだ』と侮るが、詩篇の著者は反論する。神は『見ておられました』と。
 確かに、ノアの大洪水の時も、ソドムとゴモラの時も、神は地上に悪が増大するのをご覧になった、と創世記にある。そして裁いた。
 神はいる。しかし、悪は栄える。この不条理に対する解決、それが裁きだ。それは、捻じれたものが真っ直ぐになるとき、神の義が現わされるとき、神に身を委ねる者が救われるときなのである。例えば、エステルがハマンの悪巧みで窮地に陥ったとき、ダニエルが大臣達の罠にかかってライオンの穴に放り込まれたとき、神は彼らを助け出し、彼らを真っ直ぐにされたようにだ。
 神は、ちゃんと見ておられる。それも人の心(神を侮る心か、敬う心か)を。ダビデも、そうして神に「見い出された」人だ。とは言え、ダビデも罪ある人間である。過ちも犯した。しかし、彼は神に憐れみを求めた。神を侮らないからこそだ。神の憐れみを受けなければ自分は滅んでしまうと認める、それは神を侮っていないからなのである。つまり、神は裁き主、主の主、王の王だと認めることである。それが、神を侮らない、ということだ。その人を神は、決して忘れない。神は『みなしごと、しいたげられた者をかばって』助けて下さるお方だ。キリストに身を委ねるなら、今日、神の国が心の中に建てられる。今日、キリストに信頼する人を、主は見て下さる。そして、心を強くしてくださる。その信仰をもって、詩篇の著者と同じく、私達も祈ろう。『主よ。立ち上がって下さい。貧しい者を忘れないでください』と。

詩篇9

 「アルファベット詩」と呼ばれる詩であるが、肝心なのは形式ではなく、内容だ。この9篇は、神に背を向ける人々に対する裁きと共に、「貧しい者を神は決して忘れない」と宣言する。
 すると、聖書は、貧乏は良いことだと言うのだろうか。確かに「金持ちが天国に入るのは……難しい」と主は言われたし、「貧しい者は幸い」とも八福の教えにはある。ただし、それは「心の貧しい者」であるが……。心、それは原語はプニューマ(魂・霊)であって、要は、魂・霊が飢え渇いた人(自分には神が、罪の赦しが、必要だ。でなければ滅んでしまう罪人だ、と認める人)が幸いだということである。何故なら、その人は、神を求めるようになるからだ。そして神は、その求めに応じて、天の御国を与えて下さるからである。へブル11:6にあるように、神を求める者に神は報いて下さる(心の貧しい者に神は御国を与えて下さる)のだ。そして、それを保証するのが信仰だ、というのである。昔の信仰者達も、その信仰によって称賛された。
 さて主も、『神の国とその義とを第一に求めなさい』と言われた。それは具体的には、どうすればいいのだろう。神の国に属すること(祈り、賛美、礼拝など)を優先順位の一位にすることだろうか。勿論、それは正しいことだ。が、「求める」のとは微妙に違う。「求める」は、「それが欲しい、と願うこと」である。つまり、「他の何よりも、神の国が欲しいと願うこと」、それが、神の国を第一に求めることなのだ。そして「神の国」とは、「神の支配」という原語であるから、それを求めるということは、「神に支配されたい」と願うことなのだ。だから主は『神の国はあなた方のただ中にある』と言われた。神に心を支配されるなら、そこが神の国であり、神の平安と喜びが満ちるのだ。それは言いかえれば「聖い神の霊に満たされる」ということであるから、支配されるということに抵抗を感じる必要はない。神は良い方であることを知って、主に依り頼もう。詩篇9:10にあるように、神は、神を尋ね求める者を見捨てない。たとえ今はまだ不完全(心の貧しい者)でも、「神に信頼出来るようになりたい」と願い求めるなら、神は応えて下さる。それが貧しい者の幸いである。

編集・校正中

 今、近々発売予定の書籍の編集・校正作業をしているのですが、これがまた大変細かいシビアな作業で、出版社様にはご苦労をおかけしております。
 今度の本は、自叙伝ではなく、聖書についての(解説)本です。それも、キリスト教出版社からではなく、一般の「G書房(仮名)」から出ます。
 発売日等、決定次第、ここでもお知らせします。ご期待下さればうれしいです。

詩篇8

 宇宙の余りの壮大さのゆえに『人とは何者なのでしょう』とダビデは言う。よく言われるように、広い宇宙から見れば人間など、踏みつぶしても気付かない虫のようにちっぽけな者なのである。なのに神は、気付かないどころか、『これを心に留め、顧み』て下さった、というのだ。なんという恵みだろうか。その恵みの大きさについてダビデは言う。『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれ』たと。これは、人間が造られた時のこと(創世記1:26~28)を指している。確かに、神に似た(神に比べれば劣る)者として人間は造られたし、『全てを支配せよ』と神は人に言われた。だが、それにしてもダビデは、言い過ぎではないか、と感じる。『神よりいくらか劣る』と言うよりも、「かなり劣る(神のように全能ではない)」し、栄光と誉れは神のものではないだろうか。そして『万物を彼の足の下に置かれた』ということの成就を私達は未だに見ていない。
 実はこれは、人間が造られた時のことを指すだけでなく、キリストのことを預言的に語っていたのだということがヘブル2:6~9で明かされている。要するに、詩篇8:4~8は、キリストの十字架による罪の赦し(救いの道を開く、という福音)を預言していたということなのだ。それゆえ、万物を彼(キリスト)の足の下に置いた、というわけなのである。つまり、キリストこそ主の主、王の王ということだ。ゆえにダビデは、神の偉大さを称える言葉でこの詩を始め、同じ言葉で締めくくる。その偉大なる神の御手の業(宇宙)を見てへりくだり、神を自らの王とせよということ、それがこの詩のメッセージだ。
 それに対して、自分の栄光を求め、自らを王とする(神に敵対する)者を黙らせるために「幼子の口に賛美を置いた」ということがマタイ21:15~16で起きている。それが詩篇8:2の預言の成就だ。
 私達も、自分の栄光を求める思い・心を鎮めるために、神の偉大さを賛美しよう。ちっぽけな者を心に留め、顧みて(救いの道を開いて)下さった神の前にへりくだり、神の国とその義とを第一に求めよう。そうすれば恵みはついてくる。