預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇10

 悪が栄える陰で『不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる』。そのような現実を見ることがある。それゆえに悪者は『神は忘れている。顔を隠している』と、神を侮る。
 面白いのは、彼らは、神の存在を否定してはいない、ということだ。ただ、侮っているのである。『私は揺るぐことがなく、代々にわたって、災いにあわない』、神の裁きはない、と。
 しかし、聖書は言う。『神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります』(ガラテヤ6:7)と。それでも悪者は、神は『決して見はしないのだ』と侮るが、詩篇の著者は反論する。神は『見ておられました』と。
 確かに、ノアの大洪水の時も、ソドムとゴモラの時も、神は地上に悪が増大するのをご覧になった、と創世記にある。そして裁いた。
 神はいる。しかし、悪は栄える。この不条理に対する解決、それが裁きだ。それは、捻じれたものが真っ直ぐになるとき、神の義が現わされるとき、神に身を委ねる者が救われるときなのである。例えば、エステルがハマンの悪巧みで窮地に陥ったとき、ダニエルが大臣達の罠にかかってライオンの穴に放り込まれたとき、神は彼らを助け出し、彼らを真っ直ぐにされたようにだ。
 神は、ちゃんと見ておられる。それも人の心(神を侮る心か、敬う心か)を。ダビデも、そうして神に「見い出された」人だ。とは言え、ダビデも罪ある人間である。過ちも犯した。しかし、彼は神に憐れみを求めた。神を侮らないからこそだ。神の憐れみを受けなければ自分は滅んでしまうと認める、それは神を侮っていないからなのである。つまり、神は裁き主、主の主、王の王だと認めることである。それが、神を侮らない、ということだ。その人を神は、決して忘れない。神は『みなしごと、しいたげられた者をかばって』助けて下さるお方だ。キリストに身を委ねるなら、今日、神の国が心の中に建てられる。今日、キリストに信頼する人を、主は見て下さる。そして、心を強くしてくださる。その信仰をもって、詩篇の著者と同じく、私達も祈ろう。『主よ。立ち上がって下さい。貧しい者を忘れないでください』と。

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