預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇9

 「アルファベット詩」と呼ばれる詩であるが、肝心なのは形式ではなく、内容だ。この9篇は、神に背を向ける人々に対する裁きと共に、「貧しい者を神は決して忘れない」と宣言する。
 すると、聖書は、貧乏は良いことだと言うのだろうか。確かに「金持ちが天国に入るのは……難しい」と主は言われたし、「貧しい者は幸い」とも八福の教えにはある。ただし、それは「心の貧しい者」であるが……。心、それは原語はプニューマ(魂・霊)であって、要は、魂・霊が飢え渇いた人(自分には神が、罪の赦しが、必要だ。でなければ滅んでしまう罪人だ、と認める人)が幸いだということである。何故なら、その人は、神を求めるようになるからだ。そして神は、その求めに応じて、天の御国を与えて下さるからである。へブル11:6にあるように、神を求める者に神は報いて下さる(心の貧しい者に神は御国を与えて下さる)のだ。そして、それを保証するのが信仰だ、というのである。昔の信仰者達も、その信仰によって称賛された。
 さて主も、『神の国とその義とを第一に求めなさい』と言われた。それは具体的には、どうすればいいのだろう。神の国に属すること(祈り、賛美、礼拝など)を優先順位の一位にすることだろうか。勿論、それは正しいことだ。が、「求める」のとは微妙に違う。「求める」は、「それが欲しい、と願うこと」である。つまり、「他の何よりも、神の国が欲しいと願うこと」、それが、神の国を第一に求めることなのだ。そして「神の国」とは、「神の支配」という原語であるから、それを求めるということは、「神に支配されたい」と願うことなのだ。だから主は『神の国はあなた方のただ中にある』と言われた。神に心を支配されるなら、そこが神の国であり、神の平安と喜びが満ちるのだ。それは言いかえれば「聖い神の霊に満たされる」ということであるから、支配されるということに抵抗を感じる必要はない。神は良い方であることを知って、主に依り頼もう。詩篇9:10にあるように、神は、神を尋ね求める者を見捨てない。たとえ今はまだ不完全(心の貧しい者)でも、「神に信頼出来るようになりたい」と願い求めるなら、神は応えて下さる。それが貧しい者の幸いである。

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