預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

今なら受けるかも

1988年に作曲したオリジナルの賛美曲。
プロギーでアンビエントかつブルージー。
No other like this, I think.
こんなのが受け入れられる時代じゃなかった。


曲名書くのを忘れてた。


「牧歌」


↓ アイコンをクリックすると聴けます。

過ぎたこと

むかし、「プログ DE ぶろぐ」ってタイトルのブログを書いてた。
プログレッシブロックの中でも、特に辺境の(ボリビアとか)、そして変態なアルバムをレビューしてた。
コアなファンが数人いた。
けど、ブログサイトサービスの廃止で公開停止。
データを残しておけばよかったなあ、と後悔。
もう一回おんなじことを書く気力と記憶力が無い。((+_+))

詩篇6

 苦しみのあまり、嘆きで疲れ果て、涙の海で溺れそう……そんなダビデだが、そのような状況を招いたのは、自分の罪のゆえであることを彼は認めている。恐らく、バテ・シェバとの一件(及び、部下殺し)であろう。本来なら、責められて当然、神が憤るのも当然。自分のせいなのだから、どこにも言って行く先が無い。しかし、ダビデには訴える先があった。勿論、悪いのは自分だと分かっている。それでも神に憐れみを求めることが出来るのは幸いである。それはダビデに限らず、「全ての人は罪がある」と聖書は言うのであり、その自分の罪のせいで神に罰せられたとしても誰にも文句は言えない。しかし、幸いなことに、私達は神に憐れみを求めることが出来るのだ。そして神は、悔い改めてキリストを信じ従う者に憐れみを示して(救って)下さるのである。憐れみ深い神に感謝しよう。もし神が憐れんで下さらない(神に見捨てられた)なら、もはやどこにも希望はない。ダビデは、それ(神との断絶)を何よりも恐れた。勿論、神は「あなたを捨てない」とおっしゃる。しかし、罪が神との間の壁となり、断絶を作ってしまうのである。例えば、太陽が輝いていても、窓の無い部屋の中にいれば、壁が光を遮るようにだ。ゆえにダビデは、神との正しい関係が回復することを求めた。そして、それは、生きている内にしておかなければならない(死んでからでは遅い)とダビデは知っていた。
 当然ながら、死んでからのことは(例えば、葬儀も)死ぬ前に備えておかなければならない。いや、葬儀なら遺族が何とかしてくれるだろう。しかし、天国に行けるかどうかは、遺族任せではどうにもならない。自分自身が天国を信じ、神の言葉に導かれて歩まなければならないのだ。そして、天国の確信を持つこと、それこそが人生の問題を乗り越える力となり、苦しみの時の避け所、慰め、希望となる。仮に、その苦しみの原因が自分にあったとしても、それでもダビデのように私達には訴える先がある。神の憐れみを求めることが出来る。そして主は憐れんで下さる。ゆえにダビデは、この詩の最後で「勝利の宣言」を記した。神がダビデの祈りを聞かれたからだ。神との正しい関係が回復したのである。それが、世に勝つ、ということだ。

詩篇5

 ダビデを殺そうと待ち伏せし、罠を張り巡らせている敵がいる。「だから彼らから私を守って下さい」という嘆きの祈りから、この詩は始まる。ダビデが狙われる理由、それはダビデが王という特別な権威・地位にあったからだ。それは私達一般人には無縁なことと思えるかもしれない。しかし、そうではない。何故なら、ダビデの王位は、神によって与えられた(神に選ばれ、油注がれた)ものであるからだ。その点、クリスチャンも、神によって与えられた「神の子」としての特権がある。そして、その私達の特権を奪い取ろうとする(何とかして地獄に道連れにしようとする、どうにかして信仰を失わせよう、捻じ曲げてやろうとする)敵がいるのである。そういう意味で、私達もダビデと全く同じ立場にあるということだ。決して無縁な、別世界の出来事ではないのである。その敵は、狡猾にも、様々な罠を張り巡らせ、手ぐすねを引いて待ち伏せしているのである。
 その罠の一つ、それが、異端の教えだ。それは『滅びをもたらす』とペテロは言う(Ⅱペテロ2:1)。しかも、それは、気付かない内に『密に』忍び込んで来るのである。まるで放射能のようにだ。対策は、避ける(近付かない)ことだ。その為には、線量計をもって厳密に測るしかない。信仰において、その役割を果たすのが「正しい聖書理解」である。それに照らし合わせて、どれくらい基準からオーバーしてるか(どれくらい危険か)を測るべきなのである。ところが、その基準が気付かない内に変えられてしまう場合がある。聖書は「キリスト以外に救いはない」と言うのに、「クリスチャンでなくても救われる」というような考え方が一部の人達の間に浸透している。そのような教えに近付いてはならない。離れ、避けるべきである。避けて、逃れる先は、主イエスの元だ。主の元に身を避けるなら、主が守って下さる。それを求めて、ダビデは叫び祈る、それがこの詩だ。
 へりくだって主に依り頼む主のしもべ(正しい者)を、主は愛の大盾で守って下さる。神の愛に包まれるなら、恐れ不安は消える。人生の、どんな問題、悩みが襲って来ようとも、びくともしない。神の愛の大盾ですっぽりと包まれることを求めよう。

日曜は働くな?

トラディアン派(真実派)主幹。
鳥栖、大野城、福津の三ケ所の教会を兼牧しています。
でも、体は一つですから。
身が持ちません。
日曜は、へとへとです。
🤣