預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇6

 苦しみのあまり、嘆きで疲れ果て、涙の海で溺れそう……そんなダビデだが、そのような状況を招いたのは、自分の罪のゆえであることを彼は認めている。恐らく、バテ・シェバとの一件(及び、部下殺し)であろう。本来なら、責められて当然、神が憤るのも当然。自分のせいなのだから、どこにも言って行く先が無い。しかし、ダビデには訴える先があった。勿論、悪いのは自分だと分かっている。それでも神に憐れみを求めることが出来るのは幸いである。それはダビデに限らず、「全ての人は罪がある」と聖書は言うのであり、その自分の罪のせいで神に罰せられたとしても誰にも文句は言えない。しかし、幸いなことに、私達は神に憐れみを求めることが出来るのだ。そして神は、悔い改めてキリストを信じ従う者に憐れみを示して(救って)下さるのである。憐れみ深い神に感謝しよう。もし神が憐れんで下さらない(神に見捨てられた)なら、もはやどこにも希望はない。ダビデは、それ(神との断絶)を何よりも恐れた。勿論、神は「あなたを捨てない」とおっしゃる。しかし、罪が神との間の壁となり、断絶を作ってしまうのである。例えば、太陽が輝いていても、窓の無い部屋の中にいれば、壁が光を遮るようにだ。ゆえにダビデは、神との正しい関係が回復することを求めた。そして、それは、生きている内にしておかなければならない(死んでからでは遅い)とダビデは知っていた。
 当然ながら、死んでからのことは(例えば、葬儀も)死ぬ前に備えておかなければならない。いや、葬儀なら遺族が何とかしてくれるだろう。しかし、天国に行けるかどうかは、遺族任せではどうにもならない。自分自身が天国を信じ、神の言葉に導かれて歩まなければならないのだ。そして、天国の確信を持つこと、それこそが人生の問題を乗り越える力となり、苦しみの時の避け所、慰め、希望となる。仮に、その苦しみの原因が自分にあったとしても、それでもダビデのように私達には訴える先がある。神の憐れみを求めることが出来る。そして主は憐れんで下さる。ゆえにダビデは、この詩の最後で「勝利の宣言」を記した。神がダビデの祈りを聞かれたからだ。神との正しい関係が回復したのである。それが、世に勝つ、ということだ。

×

非ログインユーザーとして返信する